小耳にはさんだいい話①ロータリー情報委員会

《2001年 目次》
第1回 させていただく -クラブ週報 7月11日号-
第2回 感動を生むサービス -クラブ週報 7月18日号-
第3回 きいちゃんの浴衣 -クラブ週報 7月25日号-
第4回 こころの風景 -クラブ週報 8月1日号-
第5回 『気づき』は感動 -クラブ週報 8月6日号-
第6回 可能性に火をつける -クラブ週報 8月22日号-
第7回 友ちゃんの銀メダル -クラブ週報 8月29日号-
第8回 シドニーへの跳躍 -クラブ週報 9月12日号-
第9回 周囲の人に感謝! -クラブ週報 9月5日号-
第10回 さよならのあとに -クラブ週報 9月19日号-
第11回 雪待鳥物語 -クラブ週報 9月26日号-
第12回 人の痛みがわかる人 -クラブ週報 10月3日号-
第13回 親の背中 -クラブ週報 10月10日号-
第14回 逃げない心 -クラブ週報 10月17日号-
第15回 白いチューリップ -クラブ週報 10月24日号-
第16回 シャボン玉飛んだ白いチューリップ -クラブ週報 10月31日号-
第17回 見えないものが見えてきた -クラブ週報 11月7日号-
第18回 役者冥利 -クラブ週報 11月14日号-
第19回 天使は博多弁だった -クラブ週報 11月21日号-
第20回 生きる喜び -クラブ週報 11月28日号-
第21回 クリスマス・リース -クラブ週報 12月5日号-
第22回 年賀状は仏様に上げますよ -クラブ週報 12月12日号-
第23回 うさぎとカメのお話 -クラブ週報 12月19日号-

第24回 垢こそ宝  -クラブ週報 12月26日号-

1.させていただく
 先日、岩手県二戸市の友人と高崎の小学校の先生から、偶然にも同じ「いい話」を教えて頂きました。全国に7千店もの営業所を持つダスキンの千葉弘二社長さんのお話です。
 『私は「させていただく」ことの大切さを母から教わりました。私の郷里は愛媛県の中萩ですが、当時は水道が引かれていませんでした。私の家は貧しく井戸がないため、50メートル近く離れた井戸まで、水を汲みに行っていました。桶を天秤棒でかつぎ、井戸と家の間を何回も何回も往復します。6人の子供を育てる母にとってそれは一番の重労働でした。特にお風呂を沸かす日は大変でした。
ある日、私は学校から帰ると、水を汲みに行こうとする母の天秤棒を引き寄せ、「千伝ってやるわ」と言って担ごうとしました。ところが、なぜか母は、「手伝っていらん」と怒って、自分で水を汲みに行ってしまったのでした。日頃はあまりきついことを言わない母でしたが、その日は違っていました。
 夜の食事の時、向かい合って座っていると、小さな声で母が、「あの時、本当はうれしかったんよ。でも、おまえが『手伝ってやるわ』と言わずに『手伝わせて』と言ってくれればどれ程嬉しかったことか」と言ってまた黙ってしまったのです。

 このことは40年以上経った今でも忘れることができません。何か人様に良いことをさせていただこうと思っている時、必ずあの時の母の言葉がよみがえってくるのです。
 人様が喜んでくださった時、一番喜ばせていただいているのは、自分自身なのですから・・・』
 親として子供にどう接し、何を教えなければならないのか・・・この話を聞いてとても考えさせられました。

(クラブ週報 2001年7月11日号)

2.感動を生むサービス

 商業界という雑誌に毎月「経営逆手塾」という連載を執筆している商業アドバイザーの小柳剛照先生は、経営で大切なことは数字よりも心を磨くこと、と説いています。先日、お手紙をいただき、その中で『-お役に立つかどうか分かりませんが-』と、とても「いい話」を教えて下さいました。ご紹介致します。

 『・・・Hさんの子供は2歳で、重度のアレルギー体質。牛乳や卵を食べることができないので、家族で外食の際はその子のために弁当をつくり、店に持ち込みを許してもらわなければいけなかった。しかし飲食店の中には、理由のいかんを問わず持ち込みにいやな顔をする店も少なくない。入店を断られたこともたびたびある。

 ある日、子供が外で食事がしたいというので、ファミリーレストランのDに足を運んでみた。Hさんは店員に事情を話し、食事をさせてもらえるか聞いたところ、すぐに店長が現れ席に案内してくれた。

 「お子様のお弁当をお預かりできますか」という店長の言葉に、中身をチェックされるのかと不安になりながらも弁当を手渡した。しばらくして料理が運ばれてきたとき、Hさんは目を見張った。子供の弁当はお子様ランチの器にきれいに盛られて、おまけに御飯の上には旗が立っていたからだ。こんな素晴らしいサービスに初めて出会い、胸が熱くなったHさん家族に、店長は「よろしかったら、またご来店ください」と優しくほほえんだ。』

 本当のサービスとは、利害や損得を越えたところから生れることを教えていただきました。そして、お店というのはモノを提供する場である以前にお客様との感動の共有の場であることを改めて感じました。

【クラブ週報 2001年7月18日号)

3.きいちゃんの浴衣
 インターネツトで知り合った山元加津子さんは石川県小松市の養護学校の先生。その学校の高等部の「きいちゃん」は小さい時の高熱が原因で手足が不自由になってしまいました。
 ある時、きいちゃんのお姉さんが結婚することになりました。結婚式に出るのを楽しみにしていたきいちゃんにお母さんは「結婚式には出ないで欲しい」と言いました。お姉さんが肩身の狭い思いをするのでは・・・と心配したからでした。
 悲しんでいるきいちゃんに山元先生は「お姉さんにプレゼントをつくろうよ」と言いました。そして真っ白な布を夕日の色に染めて浴衣を縫ってプレゼントすることにしたそうです。

 針で何度も指を刺してしまい、練習用の布が血で真っ赤になってもきいちゃんは「おねえちゃんへのプレゼントだから・・・」と言って体を壊すのではないかと思うくらい一生懸命に縫い続けました。

 出来上がった浴衣を宅急便でお姉さんに送ってから二日後、お姉さんから山元先生に電話がありました。きいちゃんと一緒に結婚式に出て欲しいと言うのです。
 結婚式のお姉さんはとても幸せそうでしたが、まわりの人たちは、きいちゃんを見てひそひそ話をしていました。やっぱり出ない方がよかったかしらと思っていた時です。
 お色直しから出てきたお肺さんは、なんときいちゃんが縫ったあの浴衣を着ていたのだそうです。お姉さんはお相手の方とマイクの前に立ち「皆さん、この浴衣を見て下さい。手足の不自由な私の妹がこんな立派な浴衣を縫ってくれたので・・・。妹は私の誇りです・・・」式場は大きな拍手で一杯になりました。
 山元先生はその時のきいちゃんの笑顔とお母さんの感激の涙が今でも忘れられないそうです。

(クラブ週報 2001年7月25日号)

4.こころの風景
 『こころの風景』という素晴らしい本に出会いました。著者の荒木忠夫さんは苦学をして九州大学を卒業、サラリーマンを経て現在「寺子屋荒木塾」を主宰。地元の教育委員長や高校講師もされています。『こころの風景』には53編の心暖まる話が載っています。その中の「お父さんのおかげよ」をご紹介します。
 『・・・会社勤めだった私はずっと人事部に所属していた。一見華やかそうに見えるが、サラリーマンとしての悲しさを見るのが、人事部の仕事みたいなものである。

 5年に1回行われる会社の大運動会は大きな遊園地を一日貸し切って、家族ぐるみで行われる大規模なものだった。大観覧車の下で、ある社員が奥さんと小学生の女の子と、幼稚園の女の子の四人で楽しそうに弁当を食べていた。

実は、この父親は会社では能力的にはあまり評価されていない人だったのである。毎年、配置転換の対象となり、人事部の私は、その人の受け入れ先を探し回ったが、なかなか受け入れる職場が見つからなかった。とても真面目な人であったが、仕事が遅いのであった。
 その父親を囲んで、一家4人が楽しそうに弁当を食べていた。父親は子供達を見ながら、満足そうにうなずいていた。父親が会社でどんな評価を受けていよーと、この子供達にとっては全く関係ないのである。小学生の女の子が言った「お父さん、今日は楽しいね。いい会社に入ってよかったね」 すると、母親が言ったのである。「そうよ、お父さんのおかげよ」・・・家族のかなめは父親である。

 しかし、そのかなめを支え生かすのは、母親のこころなのである。家族の中での母親の役割は大きい。・・・』

(クラブ週報 2001年8月1日号)

 

5.『気づき』は感動
 先日、ある話を聞いて、「気づき」とは感動だ!ということを教えられました。
立山裕二さんは1歳半のときに小児マヒにかかり、何でボクだけが、と悔しい思いをし続けました。ところが、11歳の時、「神様がボクならこの病気を我慢できると思ったのかも知れない」とふと考えました。
「ああ、神様が選んでくれたのだ」と気づいた瞬間、立山さんは人や自然に優しくできるようになったそうです。そして、15歳の時、「他人が足の心配をしてくれましたが苦労とは思ってはいませんでした。しかし、ある日突然『そうだ、本当に悔しくて苦労しているのはボクではなく両親だ』と気づいた時、両親への感謝が芽生え、親孝行がしたいと思えたのが嬉しかった」と語っています。立山さんは小児マヒのお陰でいろいろなことに気づき、感謝の心が芽生え、行動が変わってきたのだそうです。
こんな話も聞きました。結婚して、赤ちゃんが欲しいと願い続けながらどうしてもできなかった夫婦に、なんと13年目にして赤ちゃんが授かりました。
「ねえ、あなた。早く、早く私の赤ちゃんを見せて」とせき立てる奥さんに、ご主人は動けなくなってしまいました。赤ちゃんは奇形で生まれてきてしまったのです。ご主人は、言葉を探すことができないまま奥さんに赤ちゃんを見せました。
奥さんは一瞬顔がくもったと思ったら、すぐに微笑みを取り戻して、こう言いました。
「ねえ、あなた。神様がこの赤ちゃんを、どの家庭に預けようかと、何年も何年も世界中をお巡りになったので、こんなに年月を要されたんですね。そして、この夫婦なら大丈夫と、そう思われて私たちに託されたんですもの。ねえ、あなた、しっかり育てましょうよ」まさに気づきは感動ですね。

(クラブ週報 2001年8月6日号)

 

6.可能性に火をつける
 8月26日、大間々(群馬県山田郡)で三輪真純(しんじゅん)先生の講演会が開催されました。
三輪先生は現在85歳。安中市の小中学校校長を歴任した後、安中市教育長、助役も務められました。群馬県で一番若くして校長になったという三輪 先生もかつては中学受験に失敗した経験があったそうです。
「家が貧乏で月謝の必要な学校へは行けませんでした。中学を落ちて、行くところがないので月謝の要らない師範学校へ入りました。1年の時は落第は免れたもののひどい成績、でも、いつも母が励ましてくれていました。・・・」
最愛のお母さんが亡くなったのは三輪先生が16歳の時。父親は涙ながらに「母ちゃんは、太郎(三輪先生の本名)の試験が終わるまでは知らせないでくれ、と言った。・・・母ちゃんは死ぬ間際までお前の写真を障子の桟のところに置いて眺めていたよ」と語りました。
三輪先生は神社の大木を見上げて、ぽろぽろ泣きながら「自分の成績をよくして母ちゃんを喜ばせよう」と決心したそうです。それから睡眠3時間の猛勉強が始まりました。「体重がどんどん減ると同時に成績がジワジワと上がってきました。3年の2学期が終った時、担任の先生に『先生、僕の成績はどのくらいでしたか』とそっと聞きました。受け持ちの先生は、にやっと笑って『何番だと思う? 三輪、お前が一番だよ』と言いました。
私はその通知簿を位牌の前に供えて『母ちゃん、一番がとれたよ』と泣きながら報告しました。・・・」
どんな人にも限りない可能性が秘められています。その可能性に火をつけてくれるのが出会いであり、感動であることを三輪先生は自らの体験を通して熱く語って下さいました。

(クラブ週報 2001年8月22日号)

 

7.友ちゃんの銀メダル
 中村勝子さんは知的障害を持つ人達にスポーツを通して「やる気と勇気」を育てるスペシャルオリンピックスの事務局長さんです。
中村さんは当時2歳のダウン症で難聴の友ちゃんに体操を教え始めました。
「普通の子なら3分もあれば前転は教えられますが理解力の余りない子に教えるのは難しいことでした。また、ダウン症の子は平衡感覚が乏しく低い台から飛び下りるだけでも何ヵ月もかかりました。
初めて飛べた友ちやんの満足そうな顔を見て涙が出るくらい嬉しかった」と言っていました。
 コツコツと練習を続けて8年目、国際大会に出場しました。初めての大舞台で耳の聞こえない友ちゃんは音楽が鳴りだしても緊張と不安で立ったままでした。
観客の人達が何とかして少女に演技をさせようと大きな声援を送り、会場全体が揺れました。その雰囲気に気づいた友ちゃんは手を広げてぱぁーと踊り始めました。
曲はすぐ終わってしまいましたが耳の聞こえない友ちゃんは最後まで一所懸命演技を続けました。決勝が終わって友ちゃんは10点満点の4・75でした。
ところがアナウンスは「ジャパン・トモコ・フルモト、シルバー」なんと銀メダルだったのです。
スペシャルオリンヒックスは、どんなに頑張っても5点位しかとれない者が4・75とった大変な努力に対して銀メダルを与えたのです。
中村さんは「ほら見てごらん、世界はこんな素晴らしい価値観を持っているじゃない、今の日本の教育はやはり間違っている」と思ったそうです。
「医学がどんなに進歩しても、2%位は心身にハンデを持った子供は必ず生まれます。それはその周りにいる人達に優しさを教えるために、神様からプレゼントされた人達なのだと思うのです」と熱く語る中村さんの澄んだ瞳が印象的でした。

(クラブ週報 2001年8月29日号)

8.シドニーへの跳躍
 先日、ショッピングセンター「さくらも一る」のセンターコートで、宮城村・若葉養護学校の『わかば生き生きフェア』が開催されました。
会場では生徒さんが心を込めて作った花や草木染のハンカチ、クッキーなどを販売、全員が社会参加の喜びを体験しました。そして、その会場には『祝出場シドニーパラリンピック走り高跳び酒井かづみさん』と書かれた横断幕が掲げられていました。
 かづみさんは若葉養護学校の本科2年生、走り高跳びを始めたのは若葉養護学校に入学してからでした。大出浩司校長先生は「ハンデのある子供たちもみんなそれぞれ素晴らしい能力を持っているんです。その本来持っている能力を見つけだし、引き出してやるのが私達の仕事なんですよ」と、優しい穏やかな表情で話してくれました。

 今年六月、茨城県筑波で開催された大会では、校長先生と担当の先生が見守る中、かづみさんは大会記録を難なくクリアし、見事シドニーパラリンピックヘの出場権を獲得しました。
 『出会いによって人は育ち、感動によって人は変わる』という言葉があります。
故郷を離れての生活環境の中で育ったかづみさんが、たまたま縁あって若葉養護学校に入学し、素晴らしい先生方と出会いました。感動のある生活をする中で、かづみさんの能力は見事に開花したのです。
 「わかば生き生きフェア」の会場では、仲間の手を引いて一所懸命面倒を見たり、先生と一緒にレジを打ったりと大活躍だったかづみさん、10月にはシドニーのオリンピックスタジアムで日本代表として、大きな目標に挑戦します。皆で心からの声援を送りましょう。
「フレー、フレー、か・づ・み」

(クラブ週報 2001年9月5日号)

 

9.周囲の人に感謝!
 先日、中学生海外研修の出発式がありました。多くの希望者の中から選考で選ばれた男子10名、女子12名がアメリカのフレズノ市で10日間ホームステイをしてきます。22名のどの顔もみんな嬉しそうで目が輝いていました。
 関係者の激励の挨拶のあと、海外研修の団長でもある大間々中学の校長先生が挨拶に立ち、『今朝、このように全員が無事に出発の目を迎える事が出来たのも、たくさんの人達が私達のために協力し、見守ってくれたお陰です。その人達に感謝してお礼を言いましょう』と言って、全員が声を合わせて見送りの人達に『皆さん、ありがとうございました』と唱和しました。
 ある本に『よい出会いをするためには、自分自身がいつも何にでも感謝の気持ちを持つことが第一、感謝の気持ちのない人は絶対によい出会いはできない』と書いてありました。改めて感謝することの大切さを教えられた中学生たちはきっと素晴らしい出会いをしてくることでしょう。

(クラブ週報 2001年9月12日号)

 

10.さよならのあとに
 9月24日、熊本県の大野勝彦さんが星野富弘さんに逢う為に一泊でお越しになりました。
 5町歩の田畑にハウスの野菜を栽培していた大野さんは平成元年、農作業のトラクターに手を挟まれ両手を切断してしまいました。
 何の前ぶれもなく始まった手なしの生活に幸せが音を立てて崩れて行くのを感じたそうです。その時大野さんが一番心を痛めたのは3人の子供たちのことでした。大野さんは奥さんと相談して「子供たちが病室に来たら楽しい話だけをしよう」と決めました。子供たちが来ると部屋の中は笑い声でいっぱいになりました。子供たちが帰り病室に元の静けさが戻ると「子供たちは、俺の両手切断のことでショックを受けていないようだ」と安心したそうです。
 でも、お見舞いに来た近所のおばさんが「勝彦さんの長男の隆君は、毎日夕方になると玄関の前に座って頭をかかえこんで、暗くなっても何時間も動かない。いじらしくてかわいそう」と涙声で教えてくれました。
 子供たちは病院に行く道すがら「お父さんのところへ行ったら楽しい話だけをしよう」と話し合っていたのです。大野さんはその時、家族の優しさに胸いっぱいの幸せを感じたそうです。
 星野富弘さんの『わたしは傷をもっている。でも、その傷のところからあなたの優しさがしみてくる』という詩画に深く感動した大野さんは今、義手で筆を持ち素敵な絵や詩を書いて多くの人に生きる勇気と優しさを与えてくれています。

 大野さんの名刺の裏には『しあわせは気付いた時から始まる。本当はしあわせなんだけどさよならのあとに気付くの』と書いてありました。

(クラブ週報 2001年9月19日号)

11.雪待鳥物語
 先日、高崎市の小学校の先生方から盛岡のおみやげに『雪待鳥』というお菓子を頂きました。そしてその後、一羽の白鳥と心優しい人との交流を紹介したビデオも送って頂きました。
 それは、こんなお話でした。
『毎年冬になると、数千キロ離れたシベリアからたくさんの白鳥がV字の編隊を組んで飛来してきます。
 岩手県雫石川に飛来した白鳥の中に「ポー」という名の白鳥がいました。ある日、ポーは高圧線に触れてしまい翼の骨を折ってしまいました。春が間近になり、北の空に飛び立つ季節になっても痛めたポーの翼は良くなりませんでした。
 やがて、飛べないポーに心を残しながら、仲間も家族も遠いシベリアヘと旅立って行きました。ポーはとうとう一羽になってしまいました。

 ポーは安全な中洲に身を寄せ、キツネや野良犬、そして夏の暑さに耐えて雪の季節を待ち続けました。
 三太郎じいさんは、雫石川にやってくる白鳥たちに16年間も毎日かかさずエサを与え続け、「白鳥おじさん」と親しまれた人で、ポーをまるで我が子のように見守り続けました。

 ある年の春、ポーは雪解けの増水で下流の町まで流されてしまったこともありました。しかし、多くの人の協力で無事に三太郎じいさんの待つ盛岡に戻ってくることができました。
 三太郎じいさんや心優しい人達のお陰でポーは8年間も生き続けました。雪の降る季節をひたすら待ち続けたポーは、たくさんの人に生きる勇気と感動を与えてくれたのです。』
今、盛岡駅では毎日『雪待鳥』の歌がホームに流れているそうです。

(クラブ週報 2001年9月26日号)

 

12.人の痛みがわかる人
 「致知」という雑誌にシドニーオリンピック男子柔道監督の山下泰裕さんの対談が載っていました。山下さんは選手達に「柔道で大事なのは勝ち負けだけじゃない。自分が勝って誰かが悲しむような勝負はするな。勝っても自惚れず謙虚さを失ってはいけない」と、常々言っていたそうです。
 そして、こんなエピソードも紹介されていました。
「シドニーの大会では、前日に試合が済んだ選手は次の日の選手の付き人としてつくことになっていました。前日、金メダルを獲得した野村忠宏選手は明け方4時ごろまでマスコミの対応に追われ、ほんの数時間の睡眠で次の中村行成選手の付き人をしましたが中村選手は残念ながら負けてしまいました。
 控え室に帰ってきて、中村選手が座り込んで着替えを始めた時、野村選手は中村選手の柔道着をものすごく大事に大切に一所懸命たたんでいました。

 付き人はそこまでやる必要はないんです。それなのに負けた中村選手の柔道着をものすごくいと愛しそうに丁寧に丁寧に折り畳んでいる。その姿に皆が心を打たれました。野村選手は人の痛みがわかる本当のチャンピオンに成長していたのです」・・・。
 コラムニストの金平敬之助さんの10冊目の本『ひと言の贈りもの』の中で金子みずヾさんの「大漁」という詩が紹介されています。
『朝焼小焼だ大漁だ 大羽いわしの大漁だ 浜は祭りのようだけど 海のなかでは何万のいわしのとむらいするだろう』(『金子みず寸全集・I』JULA出版局)
 「こうなって私はこんなにうれしいけれど、でも、こうなって悲しい人もいるのではないか」ものごとをこんなふうにとらえることが大切、と書いてありました。

(クラブ週報 2001年10月3日号)

 

13.親の背中
 『在宅介護の記録』(文芸社)という本を読みました。
この本は桐生市の茂木治さんご夫妻と治さんのお姉さんが8年間、老人性痴呆のお母様を献身的に介護した記録です。読んでいて何度も共感の涙が溢れました。

 そして、治さんのご長男が書いた『親の背中』という作文(知事賞を受賞)にも大変感動しました。
 『・・・朝、父か母が祖母を起こして流動食を食べさせる。そしてオムツを交換し、水を飲ませる。その後出勤をする両親から伯母にバトンが渡される。
 伯母の仕事は祖母に昼・夕食を食べさせること、オムツを交換すること、そして祖母に話しかけることである。実の母のためとはいえ、伯母の努力は並大抵のものではない。これも娘から母への一途な愛情なのだろう。
 両親が帰宅すると伯母から両親ヘバトンタッチ。オムツを交換し水を飲ませてから寝つかせる。こういった介護を日々繰り返している。
 「介護が苦だという人がいるけれど、俺はあたりまえだと思うんだ。それはお祖母ちゃん自身がお祖母ちゃんのお母さんを介護していた姿をこの目で見てきたからなんだ」と父が語ったとき、まさに「子は親の背中を見て育つ」だなあと思った。そして今、私はその両親の背中を見ている。
 以前祖母に、どのような大人になってほしいかと訊ねた時、祖母は「そうだね、偉い人になってほしいね」と答えた。・・・(中略)・・・今、私は「偉い人」の輪郭を自分なりに掴み始めている。それは、祖母を一生懸命介護し続けている父や母、伯母のような人になれということではないだろうか。・・・』
子供の教育、家族の有難さ、生きる意味を茂木さんご一家から教わりました。

(クラブ週報 2001年10月10日号)

14.逃げない心
 「逃げない心」という話が紹介されていました。
『女子柔道の48キロ級で活躍した長井淳子さん(26歳)が、福岡女子国際柔道選手権の開会直前に現役引退を表明/しました。
 長井さんは「世界のトップに立てる実力者」といわれながら、世界選手権やオリンピックなど桧舞台に立つことはありませんでした。

 それは同じ階級に田村亮子という巨大な壁があったからでした。けれども「田村さんのいない階級への変更を考えなかったと言えばウソになります。でもそれは私自身の逃げであり、負け。あくまで48キロ級で戦います。」と彼女は階級へのこだわりを持ち続けました。
 そして引退表明の日、自分の信念を貫き通し、多くの強豪に戦いを挑んできた彼女の顔には、清々しささえ漂っていました。巨大な壁に屈することなく挑み続けた柔道人生は、今後の彼女の人生の大きな励みになることでしょう。

 私たちも目の前の壁が大きければ大きいほど、挑戦意欲を沸き立たせ、挑み続けていきたいものです。』
 田村亮子さんの陰にこんな立派な人がいたことを知りませんでした。大切なことは相手に勝つことではなく自分に見つことだということを教えられました。

(クラブ週報 2001年10月17日号)

 

15.白いチューリップ
 先日、茨城県の友人からの手紙で、とても心温まるいい話を聞きました。
『花屋さんに小学生くらいの男の子が、小さな女の子の手を引いてやってきました。小さくたたんだ千円札を取り出して、「これでお花作って下さい。」
店員さんが「誰かにプレゼント?」と聞くと、恥ずかしそうに「お母さんに」と答えました。
 店員さんが赤とピンクのチューリップを何本か手に取ると、「ダメだよ。死んじゃったから白い花なんだ。」
店員さんは暫く黙ってしまいましたが、ウンウンとうなずくと、今度は白いチューリップを取り出しました。それも店にあった20本近いチューリップを全部。丁寧にラッピングし、大きな真っ白なリボンをかけて二人に手渡しました。それも百円ずつのおつりと一緒に・・・。
 不思議そうな顔で、でもしっかりと「ありがとう」と言ってお店を出て行く二人の小さな体から、はみ出る大きな花束に思わず涙ぐんでしまいました』・・・
 手紙を読んで私も感激でした。そしてその花屋さんの店員さんの心配りや、やさしさを見習いたいとも思いました。

(クラブ週報 2001年10月24日号)

 

16.シャボン玉飛んだ白いチューリップ
 「七つの子」や「青い目の人形」で有名な童謡作家の野口雨情はなかなか子宝に恵まれず、8年目にようやく女の子を授かったそうです。
 彼はその子を目の中に入れても痛くないほど可愛がっていました。ところがその子が僅か2歳で伝染病にかかりあっけなく亡くなってしまったそうです。彼は浴びるように酒を飲み、酔って悲しみを忘れようとしました。
 ある日、その子が夢の中に現れました。彼女は泣いていました。
涙に濡れた瞳を見た時、野口雨情はハッとしました。

「ああ、このままでは天国へ行っても娘に会わせる顔がない。お父さんは歯を食いしばって悲しみに耐えたよ。お前の分まで一所懸命生きだよ、と言えるようになろう・・・」それが彼の転機となり、後世に残る多数の童謡が生まれたそうです。
 「シャボン玉」も父の思いを表現した歌です。『シャボン玉消えた飛ばずに消えた生まれてすぐにこわれて消えた風、風、吹くなシャボン玉飛ばそ・・・』

-神渡良平先生講演会より-

(クラブ週報 2001年10月31日号)

17.見えないものが見えてきた
 井上わこさんという盲目の歌手の人の話を知人から聞きました。
井上さんは34歳の時に交通事故に遭い、後遺症で半年後に右目を失明。

「お医者さんから、左目も見えなくなると言われた時には、まだ左目は見えていたのに、その時点で全てが見えなくなってしまいました。
自分で全てを見えなくしてしまったんです」・・・と。
 人に面倒を見てもらわなければ生きられないならと毎日死ぬことばかりを考え入水自殺も計りました。「死のうとしても死ねない人っていうのは、生きなあかんよ、と言う病院の先生の侵しい言葉に涙が出ました。
 先生は拒食症の私に、もどしてもいいから食べなさい、と言ってくれました。でも本当にもどしてしまって。そうしたら先生が自分の手で私がもどしたものを受けてくださったんです。
 そんな優しい先生や看護婦さんのお陰で立ち直ることができました。」それ以来、井上さんは歌手としての自分の使命を感じ、老人ホームや養護施設の慰問を続けています。
 そして、施設の人達へのお土産にマフラーを編み始めました。目が見えないため最初の1枚を編むのに8ヵ月もかかったそうです。しかし、やがて1日に3~4枚は編めるようになり、10年間で1万枚以上も編んだそうです。
 井上さんのもう一つのライフワークは盲導犬の寄贈活動。昭和63年から1年に1頭を目標に寄贈を続けています。「あんなにすさんだ生活をしていた私が人に喜ばれる事ができるというのは大きな幸せです。今まで見えていたものは見えなくなったけど、多くの人との出会いがあって、見えなかったものが見えてきました」・・・と。
11月8日には11頭目の盲導犬の贈呈式が行われるそうです。

(クラブ週報 2001年11月7日号)

 

18.役者冥利
 今秋、大間々で開催される『全国芝居小屋会議』のPRを兼ねた研修ツアーに、先日参加しました。
岐阜県福岡町にある『常盤座』という芝居小屋を案内してくれた福岡町歌舞伎保存会の早川さんという方は、普段はタンクローリーの運転手さん。精悍な顔付きで朴訥な話し方が一層、早川さんの優しさを感じさせてくれました。
『歌舞伎をやると、殆どのお年寄りはいつも決まった場所で見てくれます。「ああ、今年も元気でいてくれたぁ」と思いながら演じます。いい場面では涙を流して見る姿に、こちらのほうが感激してしまって・・・。
 数日経ってからその婆ちゃんたちが畑仕事の手を休めて、あの芝居はよかった・・・と声を掛けてくれると本当に嬉しくなりますよ』
今では、早川さんのお子さんも歌舞伎を始め、一緒の舞台に立つそうです。

 今、感動することが少なくなった時代だと言われますが、今回の研修ツアーでは一隅を照らす素晴らしい人にたくさん出会いました。
11月の芝居小屋会議にはたくさんの感動を持ってその方々が来町されます。

(クラブ週報 2001年11月14日号)

 

19.天使は博多弁だった
 私の尊敬している先生から『ことばのご馳走』④という本を送っていただきました。感動する話がたくさん載っています。
そのひとつをおすそわけします。
『まさに天使の声だった。でも、それは中年の、すこししわがれた声だった。
雨が降りしきる中、市内でバスに乗った。

 乗客は7、8人。私を乗せて、バスはまさに発車しようとした。そのとき、小柄なおばあさんが席を立って慌てて降りようとした。70代半ば近い、腰の曲がった人だった。手に大きな荷物と傘。足許もおぼつかない。そのうえ床も濡れ、ステップも滑りやすい。
 「あ、危ない! バスが動いたら・・・」

他の乗客もただハラハラ見守るだけだった。その瞬間だった。車内にやさしい声が響いた。あたかも天使の声のようだった。

でも、それは博多弁の天使だった。
「ゆっくりでよかとよ。バスは動かさんから・・・」

 この一言で安堵感が流れ、車内がいっぺんに和んだ。そして、乗客みんなが乗務員の背に感謝の目を向けた。』

(クラブ週報 2001年11月21日号)

 

20.生きる喜び
 かねてから一度お会いしたいと思っていた深谷市の田島隆宏さんにお会いしました。
 田島さんは脳性小児マヒで生まれ、40歳を過ぎた今でも寝返りさえ打てない重度の障害を持っています。

 しかし、とても明るい性格で、口と顎だけで操作出来る電動ベッドに乗って、いまカメラマンとして活躍しています。
「ホウジャクの一瞬」と名付けられた写真があります。

 コスモスの花からホウジャクが飛びながら蜜を吸っている写真です。「幸いにも体が動かない僕にとって決定的瞬間を狙って待つことは苦痛ではありません」と言って2週間待って撮れた写真だそうです。蜜を与える花も、蜜をもらうホウジャクも、分かち合い、共生を楽しんでいる瞬間を田島さんは見事にカメラに収めました。
田島さんは子供の頃、意地悪をされたり、笑われたり、石を投げつけられたことさえあったそうです。大声で泣き、「どうして僕を生んだんだよぉ」と抗議するたびに、お母さんは答えることも出来ず、目頭を押さえて台所に走り込んだそうです。そんな田島さんが、割り箸を口にくわえ、パソコンで打った詩があります。
 -おかあちゃんぼくを生んでくれてありがとう ぼくはたまたま不自由だったけど幸せです うそじゃないよおかあちやん ほんとうにぼくをうんでくれてありがとう-

(クラブ週報 2001年11月28日号)

21.クリスマス・リース
 大間々町厚生会館で、あるクリスマス会が開かれました。
 「参加費300円、おにぎり持参のこと」というのがいつもの決まりです。決して豪華なクリスマス会ではありませんが、心あたたまる楽しい会です。
 5回目を迎えるこの会を夏からずっと楽しみにしていました。というのは、7月からこのクリスマス会の為に久人くんとチーちゃんが手作りのクリスマスリースを作りつづけ、参加者全員にプレゼントしてくれることになっていたからです。
 不自由な体で、台紙に様々な形のマカロニをひとつひとつ丁寧にボンドで張り付け、金のスプレーを吹き付け、赤いリボンに、みどりのヒイラギの葉を付けて行きます。

 ゆっくりとした指先の動きを見ていると思わず『がんばって』と叫びたくなってしまいました。
 車椅子のチーちゃんと久人くんの手から参加者ひとりひとりに、思いのこもったメッセージとクリスマスリースを手渡す光景は感動的でした。

近い将来、社会人となる二人のために今度は、私たちがよい一環境一をプレゼントしてあげなければと思いました。

(クラブ週報 2001年12月5日号)

22.年賀状は仏様に上げますよ
 毎年、年の瀬には喪中ハガキが届きます。天寿を全うされて天国へ旅立たれた方もいれば、若くして病に冒され、小さな子供さんを残されて他界された方もいます。ご家族の心中を察すると言葉もありません。ただただご冥福を祈るばかりです。
 「喪中につき年末年始の御挨拶をご遠慮申し上げます」という丁寧な挨拶状が多い中でちょっと変わった、心に響く喪中ハガキも届きました。

 差出人は太田市の鎌田さん。昨年、初めて出会った方ですが人生を前向きに生きる見本のような方でお会いする度に尊敬の念が深まり、もう何10年もお付き合いさせていただいているような錯覚さえ感じる心暖かい方です。
鎌田さんからのおハガキにはこんな文章が綴られていました。
 『母(ピサ)が天国へ行ってしまった。10月26日。秋田生まれで民謡大好き。若い時は商売好きでいくつかの職を転々としながらペンチレース加工を始めたのが今の会社のはじまりなのだ。46歳の大交通事故は身と心を丈夫にし、83歳の他界は長生きだと思う。貧乏に強かったが、子供には涙も見せた。その涙で子供4人を育ててくれた。
陽気な母だった・・・ハガキも好きだった・・・だから年賀状は仏様に上げますよ。年賀状歓迎です・・・。』
 お母様にはお会いしたことはありませんでしたが鎌田さんの人柄とおハガキの内容からきっと素晴らしい人生を合うされた方だったのだろうなと思います。今年もヒサ様宛ての年賀状がたくさん届いたことでしょうね。
 新年をこの世とあの世で一緒に祝っている鎌田さん親子の笑顔が見えるようです。

(クラブ週報 2001年12月12日号)  

23.うさぎとカメのお話
 以前、PTAの研修会で元アナウンサーの小林完吾さんの講演を聞きました。その中でこんな話がありました。
 『障害者の施設の運動会を見ると感動します。競争で、かけっこの速い子が途中から引き返してきて、上手に走れない子の後ろにまわって背中を押しながら一緒に走るんです。
 そして遅い子が1着、速い子が2着でゴールして手を取り合って喜びあうんです。こんな素晴らしい光景、見たことありますか』
 この話を聞いてとても感動しました。先日、うさぎとカメの面白い話も聞きました。『うさぎさんは油断して寝てしまったけど、カメさんは目標に向かって一生懸命歩き続けたから足の速いうさぎさんに勝ったんだョ』おとぎ話にはさすが人生哲学が含まれていると思いきや、子供が言いました。
 『でもカメさん、どうしてうさぎさんを起こしてあげなかったんだろう。いっしょにかけっこしたら楽しかったのにね』・・・
競争でなく『共走』や『共創』は子供たちの方がよく知っているようです。

(クラブ週報 2001年12月19日号)

24.垢こそ宝
 『手振りうどん』で有名な大間々の星野物産や上電通運、前橋運輸、群麺センターなど群馬県内に10数杜の企業を擁する星野グループのトップ星野精助さん(85歳)がこのたび『起縁・随縁・結縁』という本を出版されました。
 人生はまさに出会いの連続、その出会いの縁を生かし、素晴らしい人生を送っている星野さんの生き方に深い感銘を覚えました。そして、星野さんが最初に大きな影響を受けたお母さんのエピソードを読んでとても感動しました。
 「・・・私が子供の頃、家には3、40人ほどの従業員がおりました。普通なら風呂などは、まず家族のものが先に入り、その後で雇人が入るものでしたが、母は「働いてくれる人がいるから、生活できるんですよ」と言って、私たち母子は一番最後に風呂に入っていました。

 子供でしたから、汚いなあと思っていましたが、母は「この垢が、今日一日働いた宝だよ」と私に言って垢を取り除き、感謝しながら入ったのです。
 また、昭和28年に当時のお金で1千2百万円(今のお金にすると10億円位)の不渡り手形をつかんでしまった時も、怒る父を制して『お父さんと私のせいで、お前を大学に行かせてやれず、常々すまないと思っていた。

1千2百万円の損は一生忘れないだろうし、この体験を生かすことは、社会大学を卒業したようなものだから、お赤飯でも炊いてお祝いしましょう』と慰めてくれました。・・・」
 自らを『愚翁』と称する星野さんの座右の銘は「一日一生、日々元旦」。
一日一日を感謝しながら真剣に生きている星野さんの元には、今も多くの人達が教えを求めて集まっています。

(クラブ週報 2001年12月26日号)

Club Banner
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 クラブバナーのデザインは、創立時のテリトリーのシンボル的存在だった栗林公園の「箱松」とロータリーのエンブレムを組み合わせたものです。

 箱松とは、その名の通り箱のかたちを装った松。樹芸の粋を極めた箱松は、ほかには見られない特別名勝 栗林公園ならではの景観をつくっています。

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