栗林公園北門から少し入った辺りと中央通りに面した三木武吉像のある一角には毎年4月から5月にかけ、華麗なハナミズキの花が入園者の目を楽しませている。
題名に秘話としたのは少し大仰かも知れないが、本来日本にはなかったハナミズキが栗林公園になぜ植えられているのか知らない人が少なからずいるからである。
話しは1905年(明治37)まで溯る。日露戦争の最中、日本とロシアは双方合わせて60万におよぶ大軍が奉天(現中国遼寧省瀋陽)の荒野で激闘し歴史に残る大規模な奉天会戦を繰り広げた。続く日本海海戦でバルチック艦隊を壊滅して勝利したが、一方で兵力や武器弾薬を消耗し尽くしていて、日本政府は米国の仲介による講和に期待していた。
同年9月、米国第26代大統領セオドア・ルーズベルトが講和に乗りだし、米国東海岸のポーツマスで外務大臣小村寿太郎、ロシアのウイッテが出席して講和条約を結んだ。
この頃米国の紀行作家エリザ・シドモア女史は、日本を訪れたとき見た桜の花の美しさに心を奪われポトマック河畔に桜の花を咲かせたいとの思いを強くしていた。
また米国農務省の植物調査官ディビッド・フェアチャイルド博士も絵や写真で見る桜の美しさに魅了された一人で、横浜の園芸商から桜木を輸入し、東洋の桜木が米国の土壌に適性するかどうかを試みたところ見事な桜を開花した。自宅での植樹の成功にフェアチャイルド博士夫妻はシドモア女史の活動を後押しし、ポトマック公園に桜並木を作ることを提唱する。シドモア女史はウイリアム・タフト第27代大統領夫人のヘレン・タフトさんにポトマック河畔の埋立地公園に桜の植樹を促す手紙を出し、自らも募金活動を始めた。
ニューヨーク在住の日本人科学者高峰譲吉博士は、ポトマック公園に桜を植樹したいという米国人の熱意を知り、直ちにファーストレディーを訪ねて東京市から2000本の桜苗木の寄贈を約束した。
日露を講和に導いてくれたアメリカの恩義に報いたいと考えていた衆議院議員で東京市長の尾崎行雄は、早速市議会で寄贈を決定し、1909年(明治42)11月、10種類、2000本の桜苗木を日本郵船の加賀丸に積んでワシントン送り出した。加賀丸は12月10日にシアトルに到着し特別仕立ての冷蔵貨車で大陸を横断してワシントンに輸送された。
ところが農務省の検疫検査の結果、無数の害虫がついて病気に冒されていることが分かり、残念ながら全てが焼却処分されてしまった。
日米親善の桜の贈呈の大失敗に尾崎市長は、タフト大統領に謝罪し再び健康な桜の苗木の移植を約束し、万全の態勢で準備に掛かるのである。
東京の荒川堤の江北桜から取った穂木を、兵庫県東野村(現伊丹市)の台木に接ぎ木し完全に健康な苗木を2年掛かりで育てあげ、1912年2月14日、6040本の桜苗木は阿波丸に積み込まれて横浜港を出航した。
余談だが日米の友好の懸け橋としての寄贈に心を打たれた日本郵船の近藤廉平社長は「一層奮発、国交上ノ関係ヲ重ンジ、全然無賃ニテ運搬ツカマツルコトトシ」との手紙を尾崎行雄東京市長に出し、運賃を無料にしている(日本郵船社内報)。阿波丸の就航以来の船長浜田松太郎は小豆島小豊島の出身。
米国西海岸シアトルに到着した苗木は、大陸を横断してワシントンDCに3月26日到着した。直ちに農務省による苗木の検疫検査が行われ、全て健康な苗木であることが確認され植樹式が行われた。
そして3月27日にポトマック公園でヘレン・タフト大統領夫人と珍田いわ日本大使夫人によって最初のソメイヨシノ2本が植えられた。植樹の場所には記念碑が建立され以下のように記されている。
The First Japanese Cherry Trees presented to the city of Washington as a gesture of Friendship and good will by the city of Tokyo.Were planted on this site.
March 27.1912.
National Capital Sesquicentennial Commission 1950
「返礼」がハナミズキの花言葉。日本人が桜の花を愛するように、ハナミズキは米国の人に愛されている。1915年(大正4)に桜の返礼として農務省のスイングル博士が米国の代表としてハナミズキ(白花)の苗木40本を携えて来日した。
返礼のハナミズキは、東京の日比谷公園、都立園芸高校、小石川植物園などに植えられた。日本に初めてハナミズキが渡来した瞬間だ。そして2年後、フェアチャイルド博士から、2回目として紅色のハナミズキ13本と種子1ポンド(約0.5キログラム)が贈られた。
こうした友好の花の交歓にも時代を反映して受難の時代があった。1938年(昭和13)、「ジェファ-ソン記念館」を建てることになり358本の桜を切り倒すことになった。日本は満州事変から日中戦争(支那事変)へという時代で米国の反日感情が高まり「日本の桜は、全部切り倒してしまえ」という声もあったという。ポトマック公園には植樹から27年を経て見事な桜ばかりが咲き誇っていた。
多くのワシントンの人びとは切り取ることに反対し、婦人団体が桜の木の周りを囲んで抵抗したため記念館建設に88本の桜が切りとられただけで済んだという。
一方日本では太平洋戦争中、ハナミズキは敵国の花として冷たくあしらわれその所在さえ不明の状態だった。1945年8月15日、ポツダム宣言を受諾して終戦となって、ハナミズキは何時か人々の記憶から遠ざかって消えてしまっていた。
朝日新聞社のコラムニストであった荒垣秀雄は、昭和25年3月31日付けの「天声人語」や昭和41年5月3日号の「週刊朝日」に随筆を寄せている。(前半略)
『それにしてもわびしい話である。こちらから贈ったポトマックの桜は米国民の丹精で世界的名所になっているのに、向うからプレゼントされた花水木は、広く愛されもせず、さびれた姿である。これでは花の交換も一方交通というほかない。花水木の立派な名所を造ってこそ、花の親善も互いに花咲き実を結ぶというものだろう。日本の「桜復興運動」も花水本を忘れては片手落ちで、車の両輪として両方併行して栄えさせたいものである。ロータリー倶楽部などが一肌ぬいでみたらどうだろうか。』
荒垣秀雄氏の呼び掛けに呼応し昭和45 年、東京ロータリークラブが一肌脱ぐことになった。
クラブの創立50周年プロジェクトとして日本国内でのハナミズキの植樹を決定。たまたまその例会に出席していた米国ペンシルベニア州のジョージ・ユーリッグパストガバナーの配慮で1971年4月、同州アードモアロータリークラブから、ハナミズキの苗木300本が送られてきた。これを新宿御苑に仮植したのち1973年10月、美濃部亮吉東京都知事らも参加して皇居外苑北の丸公園に植樹した。
皇居外苑にはその後追加植樹され530本、東京都立水元公園に170本などハナミズキの森は各地のロータリークラブの賛同を得て広がりを見せ始めた。
高松市の栗林公園には、こうした動きをうけた高松南ロータリークラブが1979年3月14日、社会奉仕委員会の斎藤一雄委員長が「例会後、栗林公園でハナミズキの植樹を行うので参加を…」と呼び掛け、公園の北門付近に30本、中央通りに沿った三木武吉像の一角に5本の計35本のハナミズキを植樹、12月5日にも追加植樹して毎年美しい花を咲かせ来園者の眼を楽しませている。
ハナミズキの学名はCornus florida L.、英名はFlowering Dogwood、和名は当初「アメリカヤマボウシ」と名付けられたが、後に「ハナミズキ」と名付けられた。両者を混同してアメリカハナミズキ(花水木)と呼ばれることもあるが、ハナミズキが正しい和名である。
(高松南ロータリークラブ 越智 繁彬)
※ 「栗林公園の花水木秘話」は、こちらからダウンロードして下さい。