香川こだま学園には、現在15名の難聴児と36名の知的障害児が専門性の高い職員のもと通園しています。併せて県から障害児等療育支援事業を委嘱され、毎月約200名の通園児以外の親子が療育相談を利用しており、大いに地域に貢献しています。
特に1歳半、3歳児健診後のことばの相談や医療機関からの紹介で、始めて相談に訪れる児は,2~4歳児が多くなっています。これは2歳を過ぎて、周りの子と比べことばや落ちつきの無さ等の発達上の問題点が見えてくることが多いからです。難聴については新生児聴覚スクリーニングの普及により早期の発見、診断が可能で、生後6カ月から補聴器を装用し療育を受けている児もいます。
今後の発達支援で大事なことは ①子育てに効率は持ち込めない ②療育の質を下げない ③若年の保護者が安心できる相談体制 ④関係機関の連携の下に個別的で一貫した支援を 等です。
より早期からの家族支援を香川こだま学園の療育はすすめています。ご理解、ご支援ください。
9月29日卓話 「謎の浮世絵師 写楽」
佐 々 木 正 久 会 員
汗にまみれ寝苦しい夏の一夜、「写楽 閉じた国の幻」の新説に胸躍らせ一気に読み終えた。
さて、写楽は誰だ。明治43年(1910年)ドイツ人美術研究家ユリゥス・クルトは「SHARAKU」で浮世絵と写楽の価値を高めました。浮世絵の語句は井原西鶴の「好色一代男」で登場した春画です。今風に言えばポルノグラフィーの一種です。
浮世絵師写楽は18世紀末寛政6年5月、江戸に颯爽と登場し、百四十数枚の版画を一挙に世に出し10か月後に忽然と姿を消した謎につつまれた絵師です。クルトはその謎の絵師写楽を阿波藩お抱えの猿楽師と述べています。また、長崎の出島オランダ商館員が江戸参府の間(期間が奇妙に合致?)に描いた?はたまた写楽の作品はおおきく4期に分けられるが、期毎の作風が異なりすぎ(本文上下の写楽の浮世絵をご参照ください)別個の人物ではないか?等々諸説芬々です。
何故のちに「実は写楽はおれだ」と名乗る人物が現れなかったのか? また、写楽をよく知り、理解者でもあった版元や写楽の絵にかかわった彫り師や刷り師、あるいは同業絵師たち、はたまた当時の売れっ子戯作者、狂歌人等、誰一人として写楽を語らず、一言一句も書き留めなかったのはなぜか?
写楽が江戸の街から忽然と消えて二百有余年、未だその正体を誰も知らない。これからも永遠の謎解きが続くであろう。
興味ある方は、新潮社刊「写楽 閉じた国の幻」島田荘司著をお読みください。