10月8日第14回例会です。本日は秋分から寒露に移りました。72候では「鴻雁来る」 暦のうえでは正に深まりゆく秋です。また、今夜は3年ぶりに皆既月食が見られます。
先日香川第Ⅰ分区の会長幹事会がありました。小豆島・さぬき・東かがわそして高松市内の10クラブの会長幹事の方々とクラブ運営について懇親を深めてきました。出席率100%連続何日の報告には驚かされました。
本日の卓話はプログラム委員長の計らいで、満蒙開拓団のお話に急遽差し替えさせていただきます。戦後処理の未終結の分野のお話で職業奉仕のすそ野を広げます。お聞きください。
それでは、会員交流の例会をお楽しみください。
ありがとうございます。
田邉正忠会員(10月2日) 吉田茂会員(10月11日) 堀川満弘会員(10月29日)
仲西恭一会員より,東京への転勤のため,本日,退会の挨拶がありました。
挨拶は,次のとおりです。「次の赴任先では、ロータリークラブがありません。しかし、当行の初代社長は米山梅吉でありますので、これからもロータリークラブ活動を続けていきたいです。ありがとうございました。]
昭和14年に撮影された短いフィルムを見て頂きます。卓話に出てくる3カ所の地域を確認しておきます。「香取村」は香川と鳥取の県名の頭文字から名付けた伯耆大山北側にある開拓村です。「栗熊村」丸亀市に併合された綾歌町字栗熊、今ひとつは中国の牡丹江省寧安県樺林です。
明治38年、日露戦争で戦勝国となり、ロシアから中国東北部の旅順、大連関東州の租借権などを譲渡され、南満州鉄道の経営権を獲得しました。
昭和14年広田弘毅総理は、七大国策の一つ「二十ヵ年、百万戸送出計画」を制定、「分村移民」が政策モデルとされ香川県の4村が指定されました。特に栗熊村は耕地に対する人口密度も高い地域で昭和13年末の栗熊村の人口は3,088人、農家戸数506戸うち耕地を所有していたのは381戸でした。
栗熊村の分村計画の概要(熊谷貞一村長)は以下のような内容です。「時代ヲ認識シ更生ノ意気ニ燃ユル吾ガ親愛ナル村民各位其ノ手ニ鍬ヲ執ツテ起テ、而シテ大陸ニ移動セヨ、コレコソ神意ニ副ヒ奉リ今次聖戦ノ目的達成ニ貢献シ大陸ヲ購ヘル幾十万ノ英霊ヲ慰ムルノ道ニシテ又明朗栗熊村建設ニ寄与スル所以デアル 拓け満蒙 キツケ分村」
それではここに「大陸へのびる村」というタイトルの記録フィルムの一部が残っていますのでご覧頂きます。
撮影日は昭和14年2月、栗熊村小学校庭での歓送会、コトデン栗熊駅での見送り風景、瓦町駅から三越高松店前、旧香川県庁舎前で「万歳!三唱」高松警察署前から高松港まで行進、高松港桟橋での見送りまでです。
「綾歌町史」によれば、第一次先遣隊は、樺林駅の北東13キロの地、牡丹江省寧安県樺林に入植、ただちに農耕を開始、寺も神社も出来て一つの村が出来上がっていました。
昭和20年8月8日、ソ連軍の空襲が国境で始まり、財を捨てての開拓団の苦難の逃避行が始まり、帰国したのは半数にも満たない238名でした。
第八次樺林栗熊村開拓団は、難民生活10ヵ月の後、無一物で引き揚げ8年ぶりに高松港に帰ってきます。香川県出身者たちは昭和21年11月11日、100世帯、200名が香取開拓村に入植しました。香取村での開拓の歴史についてはまた機会があればお話しします。