新年1月14日、第27回例会です。二十四節季では、小寒で、七十二候では次候「水泉動く」地中で凍っていた泉が動きはじめる頃。あと3週間ほどで立春ですが、これからが厳しい寒波が吹き荒れたり、やや暖かさを感じさせる日があったりして、油断すると風邪をぶりかえしたりする不順な天候が続きます。健康にはご留意ください。
この時期の草花といいますと、柊です。常緑のつややかな葉にトゲトゲしており、万葉言葉でひりひり痛むことを疼くと書いて「ひひらく」といいます。それが名前の由来です。昔から、魔よけとして用いられ、節分には柊と鰯のあたまで「鬼は外」をします。木偏に冬が柊、春はつばき(椿)、夏はえのき(榎)そして秋はひさぎ(楸)で、秋だけが国字です。
今日の卓話は「“青”三句鑑賞」と題して、昨年7月に谷崎さんの後任として四国電力の高松支店長になられた徳永省二会員からお話しいただきます。何を指す「青」なのか「三句」とは?興味の唆られるところです。
週に一度の例会で、肩ひじ張らずに、裃ぬいで、卓話客話の話を聞いて、自分の引き出しふやしましょう。 よろしくお願いします。
徳永省二会員
新春,成人の日直後に機会を頂きましたので,青春の「青」をテーマに,若々しく清々しい余韻が残る俳句を3句選んで鑑賞したいと思います。
1句目は,今年度会長方針の「温故知新」にならい,日本のロータリークラブ創始者である米山梅吉氏の墓に刻まれた「いさかひも なき漫々の 青田かな」を取り上げます。
青の語感は,将来への期待と,未熟さを併せ持ちます。期待の面は,青雲の志,人生至る所に青山あり,未熟の面は,青二才などの言葉が判りやすいところです。氏は,米国留学から帰国後,晩年の勝海舟に短期間であるが師事しており,その人脈につながる厳谷小波の句会「東京白人会」に参加していました。記録では大正6年の句会で,「いさかひもなき漫々の春田かな」と初出していますが,後にこれを青田と改めています。
氏の郷里は富士の裾野ではありますが,水利に乏しい地形のため,古来水争いが絶えぬ土地柄でありました。春田の句は「雨に恵まれ,争いもなく田植えが終わった安堵の情景」と読めますが,これを青田と改め,氏の生涯を併せ考えますと,苗の一株一株が若者を想起させ,それが平和な国際環境のなかですくすく育ってほしいとの深い感情が見えてきます。
自らも米国留学を経験し,三井銀行で要職を勤めるかたわら,社会貢献とりわけ若者の海外交流に意を用い,今日の奨学金制度に脈々つながる氏の生涯を語るにふさわしい秀句といえます。
2番目の句は,郷里自慢を兼ねて紹介します。西条の松山自動車道石鎚山ハイウェーオアシスからは,左手に今治,来島大橋,右手に遥か対岸の福山沖までを雄大に見渡すことができます。
その地に「山石鎚 海瀬戸内や 秋晴るゝ」の句碑が立っています。作者は,西条で長く教職を勤めるかたわら,全国でも有数の伝統をもつ俳誌「渋柿」の第5代主宰として活躍した渡部抱朴子です。この句には青の文字はありませんが,秋の山,海の情景に「青」が鮮烈に浮き上がります。省略のきいた簡明な言葉で鮮やかな映像を描き出すのが俳句の奥深いところです。この句には,雄大な山,海を眼前に,志をたてようとする若者の姿が重なります。これは,西条に生まれ育つ者には,郷愁にも似た共通の感情です。母校西条高校校歌にも,石鎚山と瀬戸内海に若者の気概が感情移入されています。
四国の連峰背に負ひて 燧の灘に向かひて立てる
我が西条は人の気剛に 力と熱とに伸び行くところ
甲子園球場に流れた校歌の中でも,最も短く簡明に熱い思いを表すものと自慢しています。ちなみに,作詞は高野辰之,1935年の作で,ロータリーソング「我らの生業」と同じです(高野は文部省唱歌を多く作詞したことでも有名です)。この年には,ロータリークラブ創始者ポール・ハリスが来日,東京で米山氏らの歓迎を受けています。世相としても,前年には大リーグチーム相手に沢村栄治が奮闘するなど,昭和初期の日米間に 束の間の平和がみられた時期でありました。
なお,抱朴子には,石鎚山を句題として,若者の立志が感じられる秀句が多いです。
石鎚の北壁峨々と冬に入る
雲海に渦あり天狗岳に佇つ
また,教職に題をとる句も多く,若者への暖かな眼差しや,平和への祈りには,米山氏の句に通じるものがあります。
床鳴らす義足の生徒卒業す
鰯雲わだつみの声聞くごとし
ところで,俳誌「渋柿」は,大正4年創刊,今年で100周年という長い歴史を持っています。創始者の松根東洋城は,愛媛に縁が深いです。宇和島藩家老家の出自で,大正天皇の侍従を勤めました。松山中学在学時に夏目漱石から俳句の指導をうけ,以来長く師事しました。漱石が胃を患い伊豆修善寺で療養した際には,その世話を引き受けるほどの深い交流で,渋柿誌表紙の題字は漱石によるものです。
東洋城は,漱石との繋がりも深い正岡子規の句会に参加しましたが,その俳句革新運動の主旨である「写生重視」にあきたらず,次第に離れます。簡明な情景,所作の写生は基本としながらも,俳句は「作者の人生観が投影される深い余情を持つべき」として,「芭蕉直結」を唱えました。「渋柿」創刊には,ともに子規門下で「ホトトギス」を主宰する高浜虚子と袂を 分かつ背景があったといわれています。
余談だが,東洋城の母は,幕末に英明で知られた藩主伊達宗城の次女でしたが,長女は華族の柳原家に嫁いでおり,歌人白蓮は,実子ではないもののその娘となります。東洋城は宮内庁時代は柳原家に寄宿しており,従妹にあたる白蓮との間に恋歌のやりとりがあったやに伝えられています。また,東洋城の末弟宗一は,日本興業銀行で電力産業に携わった縁で,東京電力顧問や電力関係団体幹部を歴任,また新潟柏崎刈羽に立地する理研ピストンリング社長を勤めた経緯があり,後に同地の原子力発電所立地に深く関わりました。
3句目は,この東洋城が母校松山中学の後輩に贈った「鶴ひくや丹頂雲をやぶりつゝ」を紹介します。松山東高校に直筆の書が引き継がれています。
この句にも青の文字はないが,「鶴ひく」または広く「鳥ひく」の季語は,渡り鳥が一斉に北の地に向かい飛び立つ様子をいい,早春の淡い青空を鮮やかに想起させます。鶴が丹頂すなわち頭を起こし,目線を高く雲を突き破らんばかりの勢いで飛び立っていく情景に,若者が志を立て一斉に学舎を巣立っていく卒業の情景を重ねています。長く閉塞感が続く我が国の社会,経済も,新年はこのような勢いを見せてほしいと願うばかりです。
東洋城の句から,この他に若者へのメッセージ性の強いものを拾いますと,
慈しめば叱ると聞ける寒さかな 宇和島東高校に句碑があり,厳しくも暖かい師弟関係の要諦が示されています。
黛を濃うせよ草は芳しき 質実剛健とは趣を異にしますが,若草の息吹に負けぬくらいに黛を濃く引くとは,暗に女性の自我確立,自立を促す意ととらえることができます。
東洋城は生涯独身を貫き,退官後も質素な暮らしぶりで俳句指導に専念しました。晩年に郷里を訪れた際の平穏な心境を現わす印象深い句を,最後に紹介します。
芋鍋の煮ゆるや秋の音しずか
淋しさや昔の家の古き春
いずれも,芭蕉を彷彿とさせる心境句であります。