2014-15 WEB週報6月度

6月10日(水)例会

増尾会長挨拶

 6月第二週,第45回例会です。

二十四節気「芒種」初候「螳螂生」の気候です。七十二候は農作業の目安を表しています。そこにカマキリがでてくるということは,いかにカマキリが益虫か,ということです。韓詩外伝に「蟷螂の斧」という故事があり,斉国の君主がカマキリに道を譲ったという故事は日本に伝来し,カマキリは勇気ある虫とされ,現在の日本では意味が転じ,「己の無力を知らない無謀さ」を揶揄する場合に用いています。また「雪国のカマキリの卵は毎年雪に埋もれない高さに産み付けられていて,その年の雪の高さを予知している」という言い伝えが新潟の豪雪地帯を中心にあります。と,ここまでネタを探してもあと2回の2が出てきません。学の浅さを痛感しています。
 今日の卓話が本年度最後の卓話になります。「香川の電力温故知新」 と題して,徳永省二会員からお話しいただきます。

 今年のクラブ運営方針にある「温故知新」はクラブ創生期のもえいずる情熱を今に体感し,継承しよう,との思いの意味です。電力の温故知新はいかなるものか興味をかき立てます。
 本格的な梅雨のシーズン到来です。心身ともに爽快な生活を保ち得る奉仕の心を保持していきたいものです。58年目の頁から59年目の頁へ,次のページをめくる時があと2週に近づいています。次頁に期待がたかまります。

ありがとうございます。

渡邊 智樹氏(高松ロータリークラブ)
真弓 絵里子氏(高松ロータリークラブ)

卓話「香川の電力温故知新」     徳永 省二会員

 四国電力髙松支店エントランスに福沢桃介の銅像があります。明治から昭和初期にかけて活躍した実業家で、諭吉の娘婿です。

 また、多度津市の浜街道沿いの送電線敷地内に景山甚右衛門の銅像があります。明治期に多度津銀行や讃岐鉄道(髙松・琴平間を結び、後に国鉄に吸収された)を興した実業家で、衆議院議員も務めました。このような人たちの銅像がなぜあるのか? 謎解きのようですが、順を追ってお話させていただきます。
 その前に、基礎知識として、明治中期からのわが国の電気事業の黎明期には、一般にどのような発展段階を踏んだのかというと、
・ごく初期には都市部の狭いエリアで電燈を灯すことから始まり、これには蒸気機関を使ったエジソン式直流発電機が使われ、極めて小規模なものでした。
・電燈の需要が増えるとともに、今日の発送電の原型で、やや出力の大きい交流式火力発電に切り替わりました。
・さらに、電燈に加えて、日清・日露戦争、第1次大戦を経て、産業発展に伴い工場動力の電化や、製鉄、化学工業での電力使用が増えるにつれ、より大電力が求められるようになり、また石炭価格が継続して上昇したこともあり、(当時としては)大規模な水力発電所が開発され、都市部までの長距離送電が導入されました。因みに、わが国では昭和30年代後半まで発電は「水主火従」でした。
東京の例ですと、東京電燈が明治19年(1886年)開業、その後29年に火力交流発電の浅草発電所、大正4年に大規模・長距離送電の猪苗代水力発電所が完成しています。

  影山甚右衛門
  影山甚右衛門

 そこで、本題ですが、香川の電気事業発祥は、明治28年秋の髙松電灯の開業です。創業者は高松藩家老家の出自である牛窪求馬(もとめ)、内町に小規模な火力発電所を設けました。その後、昭和3年に西浜火力発電所が完成していますが、水力電源がないため発展性に欠けるものでした。
 この動きにやや遅れて、明治36年に景山甚右衛門らが設立した西讃電灯が開業、やはり金蔵寺に小規模な火力発電所を設けましたが、善通寺連隊の電燈需要で何とか事業の形をつけるものの、業況は厳しかったようです。

そこで、景山らは、大規模な水力発電所を開発して、西讃のみならず、髙松や愛媛東部、徳島池田方面をも供給区域に加えて事業拡大を図る構想をもちましたが、これに必要な資金手当てに苦心し、当時中央経済界で電気事業やガス供給事業に積極的に取り組んでいた福沢桃介に援助を求めました。

  福澤桃介像
  福澤桃介像

 桃介はこれに応じ、明治43年に増資が成り、社名も大構想をふまえて「四国水力電気」と改めました。桃介はその後大正6年まで同社社長を務めます。これにより、かねて有望な水力発電適地として調査してきた徳島県の祖谷水系の開発に着手し、大正元年に三縄(みなわ)水力発電所が完成しました。当時としては、四国で最も大きい水力発電所で、送電電圧や、髙松までの送電距離などもわが国の先端をいくものでした。いわば、四国の近代的な電気事業のルーツともいえる発電所です。因みに、この三縄水力発電所は昭和34年に再開発されており、レンガ積みの旧発電所建屋は、産業遺産マニアの格好の被写体となっているようです。
四国水力電気は、大正2年には、池田地区に電力供給していた辻町水力電気を、送電線路を接続する形で合併しています。発電所も、大正6年三縄水力の増設、8年多度津火力の新設と続きます。こうした近代的な発電設備を背景に、髙松では、大正5年には東讃電気軌道(栗林・志度間を営業し沿線で電灯供給していた)を合併、翌年に髙松駅・栗林間を延長するなど、積極的に展開します。これにより、髙松電灯との競争は激烈を極めたのですが(宣伝合戦、値引き合戦などいろいろと逸話が残っています)、お互いに消耗戦を避ける意図も次第に強くなり、昭和5年に両社は合併しています。

 今でいうベンチャー企業であった電気事業も、規模の拡大に応じて集約化を余儀なくされ、昭和初期の四国では、四国水力電気、伊予鉄道電気、土佐電気、高知県営水力、三重合同電気徳島支店の5社と、住友の四国中央電力による電気事業体制でした。
この時期、関東、中部、関西方面では、東京電灯、東邦電力、宇治川電気、大同電力、日本電力の5社体制となり、激しい競争を繰り広げていました。このうち、東邦電力大同電力は、福沢桃介が深く関わっています。この時代と、今日を比べて「温故知新」としたいと思います。
 桃介は海外留学後に北海道炭鉱鉄道に籍を置いたものの、病気療養し、その後に株式投資で財を成しました。その資金を用いて、日清紡績の設立などに関わっています。さらに、石炭取引などを通じてエネルギー分野に関心を強め、明治43年に名古屋電灯筆頭株主、常務となり、いったん退いた後、大正3年に社長に就任しています。いったん退いた背景には、名古屋の政財界には「株成金による会社買占め」と反発する向きもあったと言われます。それでも、名古屋電灯の業況が苦しいこともあり、桃介に再度経営を委ねることとなりました。桃介は、経営合理化を進めながら、木曽電気興業という子会社を設立して電気製鉄など需要開拓を進めると同時に、木曽川の水力開発に取り組みます。

 事業規模拡大のため、中京圏のみならず、関西圏への進出を企図し、京阪電気鉄道や京都電灯、 大阪電灯と組んで、大正10年に大同電力を設立、大正12年に読書(よみかき)発電所、13年に大井発電所を完成させます。
 少し脱線ですが、桃介は、川上音二郎未亡人で人気女優の貞奴と、終生にわたり事実婚の関係にあり、この時期には度々の発電所建設現場の視察にも同伴して、現場を驚かせていたとの逸話があります。(株で儲けてベンチャー事業に出資し、女優と結婚する!)
 名古屋電灯は配電事業に特化し、やはり桃介が出資していた九州電灯鉄道と合同して、大正11年に東邦電力となります。もっとも、このころには、実務は右腕の松永安左衛門に負うところが大きくなっていました。
大正14年には、震災復興により電力需要が急増していた関東に進出します。まず、東京電力(とうきょうでんりき・現存の東京電力とは別)という子会社を設立し、南では早川電力(静岡、横浜、東京に供給していた)、北では群馬電力を吸収合併、さらに昭和2年には鶴見火力発電所を竣工させ、京浜地区での電源を確保しながら、低料金を謳い、東京電燈と激しく競争しました(短期間に電灯契約の5分の1程度を奪ったと推定される)。

 結局は、基幹産業の疲弊を憂慮した三井銀行池田成彬頭取の仲裁により、昭和3年に東京電燈が東京電力を合併しました。
 その後、わが国の電気事業は、戦時統制を経て、昭和26年に今の9電力体制に再編され、各地域ごとに、電力会社が発電・送配電・販売を一貫して行い安定供給を担ってきました。しかし、経済・産業の活性化(電力事業への新規参入促進、競争促進による電気料金引き下げ、消費者の選択肢の拡大)の観点から、今また大きく事業体制が変わろうとしています。来年からは、これまでの産業用・業務用分野に加えて、家庭用分野の供給、販売も自由化されます。また、5年後には、電力会社の発電・送配電・販売部門が分離されることになりました。
今後も堅調な需要が見込まれる首都圏での事業展開を企図して、各地の電力会社も鉄鋼、石油精製などの会社と組んで、関東での発電所建設計画が目白押しです。東電も、通信会社や家電量販大手と組んで他地域での販売体制作りを急いでいます。
 こうした競争は、まったく新しいことではなく、電気事業勃興期に通過した道でもあります。戦前期に、これだけの電力会社の離合集散があったということは、リスクの高い大規模な長期投資である電力投資が、如何に難しいものであるかを示すものです。今日、自由化の進んだ欧米でも試行錯誤が続いている課題でもあります。わが国でも、早晩、電力の安定供給を維持するため、どのようにして長期リスク資金を電力事業に回していくのかが問われるように思います。            

レンガ積みの旧三縄水力発電所
レンガ積みの旧三縄水力発電所
Club Banner
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 クラブバナーのデザインは、創立時のテリトリーのシンボル的存在だった栗林公園の「箱松」とロータリーのエンブレムを組み合わせたものです。

 箱松とは、その名の通り箱のかたちを装った松。樹芸の粋を極めた箱松は、ほかには見られない特別名勝 栗林公園ならではの景観をつくっています。

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