2012-13年度 WEB週報1月度

平成25年癸巳(きし)年新年例会

 高松南ロータリークラブの癸巳年初例会は正月9日(水)、夜間例会として喜代美山荘花樹海で開催、会員各位が新春を寿ぎ集い吉田茂会長が次のように挨拶しました。

 「明けましてお目出度うございます。今年もどうかよろしくお願いします。取り分け6月までの半年間よろしくお願い申し上げます。

 この年末年始に掛けて私としては素晴らしいことをしました。年末年始に掛けてなんと十日間禁酒を致しました。やれば出来るという自信を持ちました。初めは十日間出来ないのではないかという不安がありましたが、何とか乗り越えることが出来ました。

何を隠そう今年還暦を迎えます。新しい年のスタートは強い意志を持って頑張ることが出来るという自分が、人生の第2周目を廻ることが出来ると思っております」

次いで秋山俊二幹事が幹事報告をしました。

 明けましてお目出度うございます。任期もあと半年ですがよろしくお付き合い下さい。

余談ですが、会長が正月前後に断酒をしていたということですが、私がその分飲ませて頂きまして、9日間でビールを40リットルは飲んだかなぁという所で2,3キロ体重が増えました。

今年1年頑張りますのでよろしくおねがいします。

 続いて新春1月の誕生者へのバースディ・プレゼントが贈られ、本人から決意の程がそれぞれ語られました。

 板坂直樹会員:私は正月休みがなくて、実は1月6日が誕生日ですがこの日までみっちりと仕事をしていました。誕生祝を頂いたのはロータリークラブが初めてです。

 中村秀明会員:満65歳になりました。年金の手続をしました。それと出張などの際、飛行機がシルバー割引とシニア-割引、それが活用できるから良いなぁと思っています。

 多田哲男会員:私はクラブに入会して30年になりますが、一度も欠席しておりません。先日免許証の更新に行きましたが、これまで眼鏡着用が条件でしたが、たまたま裸眼で検査して貰ったところOKになりました。

 増尾茂之会員:2年ほど前から手帳を頂くようになり、栗林公園や美術館などが只で利用させて頂いています。という年齢に達しています。これからは今まで受けたご恩をお返ししなければとならないと日々反省したいと思っています。

太田英章パストガバナー

 この後新年会が太田英章PDGの乾杯発声でスタート、太田PDGは挨拶の中で次のように述べました。

 「明けましてお目出度うございます。ロータリー創立が1905年ですから約108年経ちましたが高松南は55年余の歴史を重ね、我がクラブはロータリーの歴史の半分以上になりました。

今年は我がクラブにとって画期的なことが起こります。木村大三郎ガバナーの地区大会が4月20日(土)~21日(日)と開かれますが、私はこの日は欠席です。何故かというと、シカゴで規定審議会が開かれ,地区の代表議員として出席しなければならないからです。

地区大会と重なってこの時は成田からシカゴへの飛行機の中だと思います。

 それで2670地区はこれまで規定審議会へ提案したことがなかったのですが、初めて高松南の田中さんと詫間さんが提案をしました。これが審議されることになっています。

 それを規定審議会の席上で発表しなければなりません。これまで日本人が発表するときは大概通訳を通してやるのが普通ですが、そんなことでは心が通じないではないかと,これでは駄目だと今度は世界共通語の英語で発表しようと考えています。

規定審議会とはロータリーのルールを決める会合で3年に一度シカゴで開かれます。世界中から500人の代表議員が集まって1週間、缶詰状態で審議します。

 日本からは神戸の弁護士さんなどが毎回提案をしていますが、四国は完全に沈黙状態でした。今回の四国からの提案は,ルールを厳しくするという提案なので、「欠席のメイクアップの際の条件を今60%ルールというのがあって、他のクラブを訪問するときには少なくとも3/4は在席しようという提案です。

 厳しくするというので[Against]だと否決される恐れがありますが、ロータリーの歴史を考えて見るとこれまで会員増強に目が向きルールを緩めることばかりしてきました。

これを締め直そうというのが今回の提案なのです。

 私も今年ロータリー歴55年になりました。1958年の1月の第1例会からで、本日は丁度55年目の出席になります。遂に傘寿になりました。もう先は見えてきましたが、生きている限り出てきますので。よろしくお願いします」

1月16日(水)例会

会長挨拶

 生の歌と演奏を楽しんでいただけたと思います。素敵な例会になっています。この後も、「ランチタイムをジャズで潤す」ということで、三木さんと立道さんには、歌と演奏をお願いしています。楽しみです。

 いつもの私であれば、挨拶はこれで終わるのですが、今日は終わりません。お二人に食事をしていただく時間を確保するのも私の役割だからです。もう少し、話しを続けます。

 1月14日は、成人の日でした。1992年生れの人が成人式を迎えました。バブル経済崩壊後の失われた20年と言われる20年を生きた人たちです。昨年、彼らが、大学に合格した後には、東日本大震災があり、入学式が中止になった大学もありました。

 今年も、関東地方では、雪の中の成人式になり、大騒ぎでした。社会は、新成人にあまり恵まれた時間を過ごさせていないのかもしれません。

 ところで、私の長女も、成人式を迎えました。親ばか振りを発揮して、振袖を着せました。その長女に、60歳くらいの女の人が、「おめでとうございます。」と言って、お辞儀をして通り過ぎました。長女に確認しましたが、知らない人でした。

 その人は、見ず知らずの私の長女に成人式を祝ってくれたのです。善意を感じました。20年間の社会は、新成人に冷たかったかもしれませんが、個々の人の善意は新成人を励まし、優しく肩を押してくれていると思いました。

演奏と客話「種をまいてくれたロータリー交換プログラム」

ジャズシンガー 三木智子

 高松南ロータリーのお昼の例会にて卓話と演奏をさせていただいてありがとうございました。

「どうしてジャズを始めたのか」という質問を受けることがあります。

「大学時代にジャズバーでアルバイトをしていたことがきっかけ」と今までは答えておりました。

 今回改めて考えてみると、小学時代の恩師がグレン・ミラーオーケストラの楽曲を教えてくれたこと、高校時代にロータリーの交換プログラムにてニュージャージに1か月間行かせていただいたこと、この2つの種まきがあったからこそ、大学時代にジャズという音楽に興味を持てたのだと思います。

 ロータリーの交換プログラムでの経験は、高校一年生の私にとってとても強烈なものでした。初めて1か月間という長い間親元から離れ、四国の仲間と仲良くなることから始め、英語を使って意志を伝えていく。一芸が助けてくれる、というアドバイスを頂いて、持って行ったのは当時吹いていたトランペットでした。

 高校を卒業し、高知の大学時代にジャズに出会い、高松で就職をした後も音楽を続けてまいりました。音楽への強いあこがれと、歌うのであれば文化と英語を知るべきだという思いからニューヨークに渡り、そしてたくさんの友人や経験を持ち帰ることができました。

現在私は高松を中心に演奏を行っています。高松にいても外の世界に目を向けること、そして、高松にいるからこそできることをすること、この二つを常に心がけています。

 ライブハウスで、バーで、レストランで、海辺や瀬戸内海の島、お茶室や古民家などで演奏を続けてまいりました。県外に演奏を聴きに出かけるだけではなく、県外の人に「高松で面白いことをしている」と高松まで出かけてもらえるよう努力をしてまいりたいと思います。

 最後になりましたが、高校時代に最高の経験をくださったロータリーの皆様に感謝いたします。高校生だった私たちを1か月という長い間、何事も起こらないよう、いい思い出を作れるようご尽力いただきました。まさに今の私の【種】の一粒をまいてくれた経験を頂きました。ありがとうございました。

1月23日(水)例会

会長挨拶

 今日は、琴平クラブから、インターシティミーティングのPRに来られています。

1年前、当クラブが一丸となってIMに取り組んだことを思い出します。時の流れの速さに驚きます。

 もうひとつ時の流れを感じるものがあります。テーブルにある「高松南ロータリークラブ25年史」の7ページをご覧下さい。太田英章さんが当時の会長として、「銀の祝い」という文章を書いていますが、その写真の若いこと。30年後の太田さんからひと言いただきたいと思います(記念撮影の写真、当クラブの資料が高潮に浸かったことなどの説明がありました)。

卓話 新年に舞う“羽衣”    増尾 茂之会員

東遊の数々に 東遊の数々に その名も月乃色人ハ 三五夜中の 空に又

満願真如乃影となり 御願圓満国土成就 七寳充満乃寳を降らし 

國土にこれを 施し給ふさる程に 時移って 天の羽衣 

浦風にたなびきたなびく 三保の松原 浮島が雲の 愛鷹山や富士の高嶺かすかになりて天つ御空の 霞に紛れて うせにけり

 

 この曲は、幾多の羽衣伝説の内、三保の松原(静岡県)を題材にしたものです。キリ(最後の部分)に至って、羽衣を返してもらった天女が人間世界を礼賛する舞で天高く帰っていく所作を表しています。

満願真如乃影となり 御願圓満国土成就 七寳充満乃寳を降らし 國土にこれを施し給ふ とおめでたくも、また神仏の慈悲にふれる言葉の数々が、お祝いの舞の一つとして、新年の祝賀に幅広く舞われています。

 美しい松並木と後ろに神霊宿る日本一の富士山の地で天女の舞う情景を醸し出す、観世流仕舞で平成二十五年を共にお祝いしたいと思います。

1月30日(水)例会

会長挨拶

 増尾さんから「扇には表と裏がある」ということを教えていただき、私は大変興味深くお聞きしました。それに触発されて、裏表がわからないというか複雑だなという話をさせていただきたいと思います。

 まず、水です。今日は、いつもの2リットルの水をもっていません。時間がなくて、買うことができませんでした。そうしたら、幹事の秋山さんが、水を2リットル飲む健康法は間違っているらしいですよと教えてくれました。信じていたものが少し揺らぎました。何を信じたらよいのでしょうか。

 2つ目は、食事の感想です。今日の食事は、いかがだったでしょうか。いい雰囲気で、お銚子を1本つけたい(そうしたらもっと調子が出る)、満足していることをホテルに伝えて、もっとよくしてもらおうと豊田さんが言っていました。相手を信じる人の意見だと思います。逆に満足していることを伝えたら、食事が悪くなってしまうのではないかという心配もあります。

 皆さんはどちらと考えますか。両面ある話をさせていただきました。

卓話「野球部の活動につて」

高松南RC野球部 森 考司

 私にとっては、野球というスポーツのおかげで、現在の私、そして家族がある、といっても過言ではありません。

 まず私自身は実家が大衆食堂だったこともあり、大食漢で築地小学校時代は肥満児でした。その体型の為、付属高松中学では野球部からキャッチャーとしてスカウトされ、入部しました。高松高校でも野球部への入部志望でしたが、両親の強硬な反対を受け入部できませんでした。

 そのため香川大学では、何が何でも野球がやりたいという気持ちで、硬式野球部を下見にいきましたが、当時非常に弱く、緊張感もない印象を受けたので、硬式野球部には入らず、四国で敵無しの実績のあるソフトボール部に入部しました。

 通常は大学3年の夏で、就職活動などのために引退をするのですが、4年の夏まで選手兼監督としてソフトボールを続けました。

 そういうこともあり、通常より遅い就職活動だったのですが、「野球のおかげ」で、現在の勤務先である、百十四銀行に就職することができたのです。というのも就職試験、それに続く役員面接も終わり、あとは神頼みという状態の時に、当時の人事課長から「百十四銀行の野球部に入るのなら入社できるよ。」という連絡がありました。それが本当に入社条件だったかどうかは、今でも確証は取れていませんが、私は喜んで軟式野球部に入ります、と即答しました。それから数日後に内定の連絡がありました。

 次に家内についてですが、私がソフトボール部の主将という優越的地位を利用して、ソフトボール部のマネージャーをしていた家内を妻にしました。因みに、現在では家内に優越的地位を完全に奪われております。

 そして長男は、私が仕事の関係で香港に転勤となった際、小学校1年生から香港のリトルリーグに参加し、長男は選手、私はコーチとして毎週土曜日・日曜日に練習や試合を行いました。

 5年半の香港勤務を終えて、故郷の香川県高松に戻ってきました。長男は中学・高校とも野球部に入部しました。高松高校の時に、横浜ベイスターズからドラフトで指名された松家投手を擁したチームで秋の四国大会ベスト4まで勝ち進みましたが、あと一歩のというところで甲子園出場を果たすことはできませんでした。

 最後に次男が登場してくるわけです。次男が兄の果たせなかった甲子園出場の夢を、かなえてくれたのです。

 次男は、小学校4年生からスポーツ少年団の軟式野球部に入部、中学校も野球部に入部しました。そして高校でも野球部と決めて兄と同じ高松高校を受験したのですが、受験に失敗してしまいました。野球部のない私立高校には合格していたのですが、どうしても兄のいた高松高校で野球がしたいという次男の気持ちが固く、家族会議で中学浪人をすることを決めました。苦しくて辛く、長い1年でしたが、努力がみのり、翌年、高松高校に合格することができました。

 やっと入部した高松高校野球部。ここでドラマが起こりました。初戦で負けることが多かったチームが高校2年の秋、香川県大会で準優勝。四国大会では愛媛県の済美高校に敗退はしたものの、文武両道としての評価から「二十一世紀枠」という特別枠で72年ぶりに甲子園出場が決まりました。平成17年3月選抜甲子園大会、対戦相手の宇部商業に6-2で敗戦しましたが、4番バッターとしての役割は果たしてくれました。

 ここで思ったのは中学浪人をしていなければ、甲子園に行けていなかったこと。「運」だけでは片付けられない、野球に対する一途な気持ちが偶然を引き寄せてくれたと思います。

Club Banner
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 クラブバナーのデザインは、創立時のテリトリーのシンボル的存在だった栗林公園の「箱松」とロータリーのエンブレムを組み合わせたものです。

 箱松とは、その名の通り箱のかたちを装った松。樹芸の粋を極めた箱松は、ほかには見られない特別名勝 栗林公園ならではの景観をつくっています。

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