平成30年10月12日
栗林公園内 ガーデンカフェ栗林にて
10月12日の夜、心地良い夜風が秋の深まりを感じさせる中、栗林公園内商工奨励館西館にて、鎌倉芳太郎生誕120年顕彰例会が開催されました。
当日は沖縄県立芸術大学名誉教授の波照間永吉様に貴重なお時間を割いてお越し頂き、客話を頂きました。
(髙松大学佃昌道学長が波照間永吉先生を紹介されました)
故・鎌倉芳太郎氏の生前沖縄文化に対する研究の成果やその一例につき、30分程度の短い時間の中で貴重なお話を拝聴させて頂きました。鎌倉氏が沖縄文化に対しどれだけの情熱と熱意を持ち、緻密な研究をどれだけ重ねられていたかを窺い知ることができました。以下波照間先生のご講演内容です。
鎌倉芳太郎鎌倉芳太郎の青春とその初期沖縄研究
沖縄県立芸術大学名誉教授 波照間 永吉 先生
鎌倉芳太郎先生は三木町の名誉町民になっていますが、その前に、1977年に石垣市の名誉市民になっています。私はその石垣の出身です。
私は1972年2~3月に那覇市首里の琉球政府立博物館で開かれた「五〇年前の沖縄―写真で見る失われた文化財」展を見に行った時に、会場の入り口に拡大して展示されていた円覚寺の山門の写真を見て大きな感動を覚えました。円覚寺は1520年に建立された琉球王府尚家の菩提寺ですが、沖縄戦ですべて焼き尽くされ、当時も今も何も残っていません。戦前の沖縄がこのような素晴らしい建造物を作る文化的な力を持っていたことをこの写真で知らされ、この写真が現在の研究を始めるきっかけとなる決定的な1枚となりました。
1972年5月15日に沖縄は米国から日本に返還されましたが、この展覧会はその直前に開かれました。40日間の期間中に18万2千人の入場者があり、当時の沖縄県の人口が96万人だったことを考えると、興味を持って会場に足を運んだ方の多さが理解できると思います。
鎌倉芳太郎先生は1898年10月19日に木田郡氷上村に生まれ、香川師範学校卒業後、東京美術学校図画師範科を卒業し、1921年に沖縄県女子師範学校および沖縄県立第一高等女学校教諭に赴任しました。その時から琉球文化のすばらしさに魅せられ、多方面の研究を始めました。
1921(大正10)年3月に東京美術学校を卒業し、5月に沖縄に赴任する間に、恩師の勧めもあり、奈良で日本の古美術学を勉強しました。
「大正十年三月、東京美術学校を卒業した私は、一カ月ほど奈良に行き、古美術を見てまわりました。唐招提寺で唐僧鑑真の東征伝を見たとき、鑑真や吉備真備らが遣唐船に乗って沖縄まで行っているのを知って、いったい“おこなわ”とはどういうところかと関心を持つようになりました。その年の五月二十三日、文部省から出向命令が出ているのもきかずはじめて沖縄に渡ったのです。」(三木健『沖縄ひと紀行』p102)
また、美術学校師範科を卒業した方の初任給が、内地勤務では45円だったのが、沖縄に行けば、離島手当てがついて105円だったので、三木町のお世話になった叔母に仕送りができるということもあり、芳太郎先生は沖縄行きを希望したともいわれています。
「いよいよ卒業ということになり、就職義務年限が二年あるので、そのことを色々ご相談し、うまい具合に割り振って頂いて、私の希望通り沖縄県に決定し、大正十年四月より沖縄女子師範学校の教師として赴任した」(『沖縄文化の遺宝』「あとがき」275頁)
沖縄に教師として赴任した翌年(1922[大正11]年)より鎌倉芳太郎の沖縄研究は動き出す。同年春頃『沖縄タイムス』に末吉安恭(麦門冬)の「琉球画人伝」が連載されていたのを読んだのを契機に、末吉との交流が始まり、8月には末吉の論文の「原案」を書いた長嶺華國を、末吉の紹介で訪ねている。また、末吉の紹介でアメリカ帰りの写真家小橋川朝重とも交わり、伊波普猷や真境名安興も訪ねている。(『沖縄文化の遺宝』167頁)
赴任の翌年には、入学試験の試験官として宮古・八重山へ渡ったが、その時に行った八重山桃林寺の調査は、琉球芸術の価値の高さを目の当たりにするものであった。その調査研究の成果は「先島芸術と桃林寺の印象」となっている。
伊東忠太は東京帝国大学教授を務めた日本建築界の第1人者で、建築学という言葉を作った人でもあります。建築学的視点からたくさんのスケッチを残しています。
1923年4月、東京美術学校研究科(美術史研究室)へ入学。ここで正木直彦校長に琉球研究の成果を認められ、伊藤忠太に紹介される。
6月、首里城の解体工事とその差し止め。「六月某日、土曜日であったと思うが、上京以来小石川区茗荷谷にあった沖縄県学生寮に行って新聞等を見ていると、驚いたことにこの日の三日後の月曜日には首里城正殿の取毀式を行うことを大々的に報じているではないか。正殿跡には、琉球歴代国王を祭祀する沖縄神社を建立する計画であるという。私は早速伊東博士の研究室に飛んで行った。伊東博士はこの宮殿は琉球芸術の代表作であるからつぶしてはならない、といって早速電話で手配して内務省に出かけられ、後に聞いたことではあるが、黒坂勝美文学博士と打ち合され、取り敢えず史跡名勝記念物として保存することに決定した。この報が沖縄に届いたのは、正殿の屋根に鉄槌が打ち下ろされようとする劇的な瞬間であった」(『沖縄文化の遺宝』「あとがき」276頁)と書いている。
伊東忠太との共同事業で、財団法人啓明会から1か年3000円の補助を受けてのもので、その内の1000円でドイツ製写真機タゴールを入手した。
東京美術学校写真科主任であった森芳太郎教授の特別指導を受け写真技術を習得。
「琉球芸術調査事業」の開始―「鹿児島経由で南航し、三日目の早朝那覇着、早速首里市役所に出頭して、市長高嶺朝教氏に会い、市役所内に写真の暗室を作って貰うことを願い出て許可を受けた」。毎日昼間は写真を撮影して歩き、夜は乾板を現像、首里城の龍樋から水を引いた師範学校の浴場で一晩中水洗いし、翌日乾かした。
尚家(中城御殿)を初めとする首里・那覇の旧家に所蔵される美術・工芸品の調査。中城御殿については「家扶百名朝敏氏に会い、(中略)各種芸術の写真の撮影、文献の調査等についても侯爵家資料の公開が重要なのでこれを願い出て協力を依頼した」(『沖縄文化の遺宝』276頁)。真栄平房敬氏によると「ウグシク(首里城)を救ったということで、仲座ゲンタツ氏―尚侯爵家の侍従役―の先導で野嵩御殿―中城王子妃―と会った」こともあるという(1999年1月29日談)。
この調査の期間中、沖縄県師範学校の「図画科教諭の西銘生楽氏の後任の役を引き受け、特に上級四年生のためには毎週二時間の沖縄美術史を講義。この「組の級長が屋良朝苗氏であった」。
9月5日~7日までの3日間、啓明会主催で「琉球芸術展覧会及び講演会」を開催。鎌倉集の資料2000点と借り入れ品など、総計3000点を展示された。講演の講師は柳田國男・伊東忠太・伊波普猷・東恩納寛淳ら。鎌倉の演題は「琉球芸術の本質」。「漸く本格的な琉球学研究の第一歩を踏み出すことができたような気がする」と評価。
再び啓明会より3000円の補助を受け、第2回「琉球芸術調査事業」が行われる。
「沖縄島、伊平屋島、宮古諸島、八重山諸島について、特に各地の琉球固有の宗教につき御嶽神祠、祠堂等祖先崇拝と太陽崇拝、火の神、水の神の信仰につき見て廻った」-「これは伊東博士の希望によるものであった」。台湾、上海を経て帰京。
帰京後再び展覧会と講演会が開催される。啓明会創立10周年を記念してのもの。鎌倉は展覧会を担当。その展覧会は「先年来蒐集した染色工芸の資料三千点がその中軸」。「琉球染色に就きて」と題し講演。
鎌倉芳太郎の青春と苦悩―自己否定から再生へ
鎌倉ノートの中の初期のものと思われるノート26には青春期特有の苦悩から、自分を嘘つきであるとか、偽善者である、というような表現の詩もあります。そのような自己否定から再生へのプロセスを経て、研究を進めていったのではないでしょうか。
鎌倉芳太郎資料
沖縄県立芸術大学に寄贈された7,512点(ガラス乾板1,229枚・紙巻2,952枚・ノート81冊・型紙等2,154点・陶磁器67点)に及ぶ鎌倉芳太郎先生の資料は、すべて平成17年に国の重要文化財に指定され、大切に保管されています。
あらゆる資料が、写真+スケッチ+採寸、と非常に緻密な作業で記録されており、これだけの膨大な量を短期間にどのように精力的に収集したのか、いつも感心させられます。
首里城の復元に関しても、芳太郎が残した写真や柱と壁の構図も大事ですが、唐破風にある獅子と龍についても色指定、寸法指定があり、たくさんの細かな書き込みがあったので実現できたといえます。
琉球語は元々は日本語と同じでしたが千数百年の間で別のものになってしまいました。日本のことをヤマトといいますが、柳田國男は「ヤマト」と書いてありますが、芳太郎は「ヤマトゥ」と書いてあります。とても耳のいい人だったと思います。琉球語の中でも特に難しいといわれる宮古ことばも発音通りにローマ字で表記しています。鎌倉ノートの中にもローマ字だけでは表現できないものには付帯記号、独自の記号を使い、表記には苦心したのだと思います。下宿した座間味家に2人の小さな娘がいましたが、しつこく何度も言葉を聞いて書き残し、首里の言葉を学びました。また、八重山の歌を口ずさむこともありました。
故里、三木町への思い
残念ながら長男で日本画家だった秀男さんは昨年お亡くなりになりましたが、静江夫人と創作、研究に勤しんだ中野区沼袋のご自宅はそのまま残っています。
私は、約20年前に三木町を初めて訪れましたが、白山の近くには先生の生家が残っていました。鎌倉芳太郎先生は終生故里を愛していました
(鎌倉芳太郎生家と白山)
「白山に あやにかけたる水車 こをひく音の 昔こほしや」
「(前略)小生/年と倶に故里のこと忘れ/かたく六月田植えの頃 白山から/さし登る太陽の美しさは神秘/そのものに思われます」(鎌倉佳光氏宛葉書)
鎌倉芳太郎先生は故里香川県の誇りだと思うし、沖縄の大恩人であり、たくさんの宝物を沖縄に遺してくれたことに感謝しています。