小耳にはさんだいい話②ロータリー情報委員会

《2002年 目次》
第25回 善意の輪・信頼の輪 -クラブ週報 1月9日号-
第26回 一年遅れの成人式 -クラブ週報 1月16日号-
第27回 がんばれ神戸 -クラブ週報 1月23日号-
第28回 がんばれ神戸② -クラブ週報 1月30日号-
第29回 一日一生・日々元旦 -クラブ週報 2月6日号-
第30回 本当のしあわせ -クラブ週報 2月13日号-
第31回 子牛の出産 -クラブ週報 2月20日号-
第32回 心温かきは万能なり -クラブ週報 2月27日号-
第33回 譲る心を持った人 -クラブ週報 3月6日号-
第34回 おてんとうさんが見てる -クラブ週報 3月13日号-
第35回 学生服の第2ボタン -クラブ週報 3月20日号-
第36回 子供達からの卒業証書 -クラブ週報 3月27日号-
第37回 感謝を教える入社試験 -クラブ週報 4月3日号-
第38回 恵みの呼吸 -クラブ週報 4月10日号-
第39回 レスリング王国・大間々 -クラブ週報 4月17日号-
第40回 親子の季節 -クラブ週報 4月24日号-
第41回 熱意と感動があれば・・・ -クラブ週報 5月1日号-
第42回 子犬と少年 -クラブ週報 5月8日号-
第43回 ガンバレ、A子! -クラブ週報 5月15日号-
第44回 尽くし合い -クラブ週報 5月22日号-
第45回 青いあざのおかげで -クラブ週報 5月29日号-
第46回 あおいこえ -クラブ週報 6月5日号-
第47回 びょういんの木 -クラブ週報 6月11日号-
第48回 いのちの根 -クラブ週報 6月19日号-
第49回 ワールドカップ体験記 -クラブ週報 6月26日号-
第50回 稚児地蔵(最終回) -クラブ週報 7月3日号-

25.善意の輪・信頼の輪
 先日、クルマで何気なくエフエム群馬を聞いていました。
小さな子を持つ女性の方がインタビューに答えて『...阪神淡路大震災の惨状を見て、私同様の子育て中の被災者の方に何かしてあげられないだろうか、と何度も神戸市役所にダイヤルし、オムツやミルクが不足していることを知りました。なんとか役に立ちたい一心で友人達に電話をかけまくり、その友人達がまたその友人に電話をして-わずか一時間後、何と100人近い人達から80万円近いお金が集まることが分かりました。
 友達の友達、見ず知らぬ人達からの善意も集まり、段ボール70個分もの物資を神戸に送ることができました。その時、人の力ってすごい、人のつながりってすごいと思いました-』
 そのことがきっかけで、ネットワーク作りをしようと思い、『ピュアウイング』という群馬県女性情報誌を創刊したそうです。番組の最後でその女性が大間々の方と知り、一層うれしくなりました。
この雑誌は、さくらもーるブックザウルスさん、七丁目和音さん、文真堂さん、ファミリーブックさんでも販売中です。

(クラブ週報 2002年1月9日号)

 

26.一年遅れの成人式
 結婚式の披露宴では、友人代表のスピーチが楽しみです。主役の知られざる一面が垣間見られるからでしようか。
近所のN君の結婚披露宴はシンプルで好感のもてる披露宴でした。そして、N君の友人であるA君のスピーチはとても感動的でした。
 『僕は小さい時体が弱く、皆より1年遅れて小学校に入学しました。それ以来ずっとN君と同級生として付き合ってきました。

・・・20歳になって成人式を迎えましたが、1年遅れて学校に入った僕には同じ年の友人はいなくて、成人式にも参加しませんでした。それを知ったN君は、役場やいろいろな人達にお願いして回って、とうとう僕を翌年の成人式に参加できるようにしてくれたのです。年下のN君を頼もしい先輩のように思えました。...』
 聞いていてN君のこころの優しさと行動力に感心し、また二人の友情を羨ましく思いました。親族席のテーブルの上で結婚式を観ていたお祖父さん、お祖母さんの写真も喜んでいるようでした。
N君ご夫妻お幸せに・・・そして、素晴らしい親友を持っているA君に乾杯!

(クラブ週報 2002年1月16日号)

 

27.がんばれ神戸①
 早いものであの忌まわしい阪神・淡路大震災から一年以上がたちました。
1月17日はテレビでも新聞でも、震災後の神戸の様子を報道し、それを見た私たちは1日も早い神戸の復興を祈りました。その中で特に感動したのは平本千映さんという神戸の小学5年生の女の子の詩でした。すべての全国紙の朝刊に載ったので読んだ方も多いと思いますが、改めて御紹介します。
『なくしたものは いっぱいあるけれど おしえられたこともたくさんある
人のやさしさたくましさ
おばあちゃんも お母さんも言った 物は頑張ればまたできる
みんなでたすけあって がんばる気持ち
みんなでがんばれば またもとのまちにもどる 私はそう思う』
この短い詩の中で逆に少女からたくさんのことを教えられ勇気づけられました。感動のあまり励まされた私が平本千映さんに励ましの手紙を書いてしまいました。

(クラブ週報 2002年1月23日号)

 

28.がんばれ神戸②
 先月号の『虹の架橋』で神戸市の小学生、平本千映さんの詩を御紹介しました。
阪神大震災で失ったものはたくさんあったけれど、教えられたこともたくさんあり、これから皆で力を合わせて頑張ってゆきたい-という感動的な詩でした。
 私どもからの励ましの手紙に対して小学校の校長先生からお礼の手紙と子供たちの文集を送っていただきました。手紙には、平本千映さんが校長先生にとても嬉しそうな表情で私からの手紙を見せたことや、子供たちが、つらい体験をはねのけて少しづつ元気を取り戻していることなどが書かれていました。改めて『皆さん、頑張って下さい』という気持ちになりました。
又、子供たちの文集は読んでいて思わず目頭を熱くする感動的なものばかりでした。大きな代償は支払ったけれど、世の中で一番大切なものを彼等はあの体験の中で見つけたのだな・・・とうらやましくさえ思えてしまいました。この文集を多くの方に読んでいただきたいと思います。御希望の方はお申出下さい。

(クラブ週報 2002年1月30日号)

 

29.一日一生・日々元旦
『虹の架橋』は新聞折り込みの他に親しい方にも送っています。
高崎の小学校の、内堀一夫先生もそのひとり。内堀先生は25年間、毎日学級新聞を作り続けているという偉大な先生。1月号で星野物産の星野精助会長の座右の銘『一日一生、日日元旦』に感銘を受けた内堀先生は早速、6年2組の子供たちにこの言葉を書き初めで書かせ、感想も書かせました。
『ゆっくりと丁寧に書きなさい。仕上がったら部屋のどこかに貼りなさい。そして心が疲れた時や怠けたい気分になった時、自分の書をじっと見つめなさい。必ず気力がでてきますよ・・・』子供たちにそう教えたそうです。
 たくさんの書き初めと感想文のコピーが私と星野会長の元に届きました。
感想文には『自分も一日を元旦のよう大切に生きてゆきます。人のためになる事をします』また、『私は面倒なことはなんでも後回しにしていました。でも、星野さんのこの言葉を読んで、内堀先生に意味を聞いて自分が恥ずかしくなり今年の目標をこの言葉にしました』等々。内堀先生と子供たちから大切な事をたくさん教えられました。

(クラブ週報 2002年2月6日号)

 

30.本当のしあわせ
 フォスター・プラン協会というボランティア団体があります。アジアやアフリカで飢えや難病に苦しむ子供たちの里親代わりとなってその地域に援助をしている団体です。
大間々町桐原の江村隆男さんもこの活動に参加されているそうです。江村さんはフィリピンの10歳になる少女の住む地域に暖かい援助金を送り続けています。
江村さんの仕事は建設業。『フィリピンの森林をはげ山にしているのは日本人なんですよ。どんどん自然が失われていって...なのに経済的に豊かになるのはフィリピンの人達ではないんです。たいした援助は出来ないッすけどね、これくらいなら・・・。』一と謙虚。
 時々、フィリピンからお礼の便りが来るそうです。写真を見せてもらいましたが、粗末な家をバックにして写っている少女の澄んだ瞳がとても印象的でした。
水道や電気もなく恵まれない環境の中でも、江村さん達への感謝の気持ちや、家族と一緒に暮らせることの幸せをいっぱいに感じている笑顔に感動しました。

(クラブ週報 2002年2月13日号)

 

31.子牛の出産
 2月に開催された『商業界』の勉強会で上甲晃(じょうこうあきら)先生から感動的な話を聞きました。
 北海道家庭学校は全国で唯一の私立の教護院、いわゆる非行少年を更生する学校です。全寮制で一つ屋根の下で少年たちと先生方の家族も一緒に暮らしています。先生方が教育に対して本気でなければとても勤まらない真剣勝負の学校です。
 この学校の生徒が牛のお産に立ち会った時のことです。親牛は苦しみながら踏ん張っていました。子牛の前脚が出てきたのを見てオロオロしている生徒に、先生はぬるま湯を用意しろ、クサリを用意しろと次々に指示を出します。クサリを子牛の前脚にひっ掛けて、さらにそれにロープを付けて引っ張るのです。
 子牛の前脚がちぎれてしまうのでは、と生徒達が加減して引っ張っていると先生から「もっと強く引っ張れ」と言われおもいっきり引っ張りました。やがて下半身が出てきましたが、難産で頭が出てきませんでした。ようやくベチャベチャに濡れた子牛が出てきたのですが息をしていませんでした。先生が子牛の鼻の穴を吸え!と言いました。
先生が片方の穴を吸い、生徒がもう片方を夢中で吸いました。やがて子牛は無事に自分の力で呼吸をはじめたのです。その生徒が急に泣き出してしまいました。そしてこういったそうです。
 「ボクのお母さんもボクをあんなふうに苦しんで生んでくれたのにボクはお母さんにつらく当たり、ひどいときには暴力を振るって困らせていたと思うと、すごく悪く感じました。これからは、お母さんに対してだけじゃなく、ボクの為に一生懸命になってくれている人達に対して心配をかけずにやっていきます。」

(クラブ週報 2002年2月20日号)

 

 

32.心温かきは万能なり
 先日、ながめ余興場でカー用品の「イエローハット」の創業者・鍵山秀三郎さんの講演会が開かれました。
 『私は36年前、自転車一台の行商からスタートを致しまして、本当に屈辱的な目に何度も遭いました。店の中から手で追い払われたり、名刺を出してもチラッと見ただけで無視される。人間は無視されたり、冷たくあしらわれるくらい辛いことはありません。ですから私は人にはこういうことはしない人間になろうと心に堅く誓いました。
一方、心温かい人もいらっしやいました。
 昭和37年2月のみぞれの降る寒い日に自転車に荷物を積んで歩いておりました。ある小さなガソリンスタンドさんの前で、入って良さそうかどうか感触を確かめてから合羽を脱ごうとしておりましたら、私の手を持って中へ引っ張り込んで下さる方がいる。

「ああ寒いでしょう、冷たいでしょう」と言って私の肩に手を掛けて両方の肩を持ってストーブの前へ連れていって「火におあたんなさい」と言って下さる。私は、その方の洋服が濡れることを気にしたのですが、そんなことはおかまいなく、「今、団子を買ってきたところだから一串食べなさい」と言って私にくれたんです。涙が溢れちゃって食べられませんでした。

 「世の中には何と心の温かい人がいるものだ、私もこういう人間になろう」と強く思いました。
その人は今は亡き歌手の藤山一郎さんでした』
 講演が終わった後、体に障害を持った久人君と千恵子さんからの花束贈呈の際、鍵山さんはステージにひざをつき、車椅子の二人に目線を合わせて嬉しそうに花束とお土産を受け取りました。「心温かい人間になろう」とお話になった言葉通りの相手を思いやるしぐさを見て鍵山さんの優しい人柄を更に強く感じました。

(クラブ週報 2002年2月27日号)

 

33.譲る心を持った人
 「とてもいい本があったから・・・」と、友人がある本を貸してくれました。それは遺伝子研究の世界的権威の筑波大学・村上和雄教授著『人生の暗号』(サンマーク出版)という本でした。
 その本によると『ヒトの体は成人で約60兆個の細胞からできており、その細胞の一つ一つは30億の遺伝子情報で構成されています。そしてその遺伝子の構造と原理は、全ての生物に共通しています。
現在、地球上には200万種以上の生物がいるといわれていますが、あらゆる生物が同じ起源を持っているのです。』と述べています。そして遺伝子の組合わせによって、私達が人間として生まれてきた確率は1億円の宝くじを100万回続けて当てるよりも難しい確率だったのだそうです。与えられた命の大切さを改めて実感しました。
『遺伝子研究によって解ったことは天才も凡才も遺伝子や潜在能力では1%も変らない、変るのは遺伝子の働きがONになっているかどうかであり、遺伝子を目覚めさせる最良の方法は、プラス思考、共感すること、感動することなどが大切・・・』なのだそうです。
 最新のコンピュータで「どんな人間が最後に生き残るか」を推測したところ、大方の予想が「強い人」「競争に勝ち抜く人」だったのに対してコンピュータの回答は「譲る心を持った人」だったそうです。『人の心は「他人のため」に献身的に努力している時、理想的な状態で遺伝子がONになるのです。だから他人のために何かをすることほど、自分に役立つことはありません。・・・』と村上教授は一言っています。
本来、神様は人間を『譲る心を持った生物』としてこの地上に送り出してきたかも知れませんね。

(クラブ週報 2002年3月6日号)

 

34.おてんとうさんが見てる
 第2次大戦中の話です。朝鮮や満州にいた日本の兵隊達は食料不足で大変ひもじい思いをしていました。そこで、原地の子供達に「スイカ持ってこい」「マクワ瓜持ってこい」と命令しました。
子供達は兵隊が怖いものだから、畑にもぐり込んで、スイカやマクワ瓜を盗んで持ってきてくれたそうです。
 次に、その兵隊達はニューギニアヘ転戦しました。ここでも食料不足は同じ。兵隊達はまた、原地の子供達に「バナナもってこい」「パパイア持ってこい」と命令しました。
ところが、どんなに脅かしても子供達は皆、両手を合わせて「勘弁してくれ」「勘弁してくれ」というばかりで一人も言う事を聞かなかったそうです。そこで「お前達はなぜ俺達の言う事が聞けないのか」と怒ると、どの子供達も同じように空を指差して「おてんとうさんが見ているから出来ないんだ」と口々に言いました。
その姿に兵隊達も深く心を打たれたそうです。人間として、してはならないことはどんなことがあってもしてはいけない、という最も人間らしい生き方をこの話から学びました。

(クラブ週報 2002年3月13日号)

 

35.学生服の第2ボタン
 子供たちがお世話になった学校の先生方の中にはとても情熱あふれる素晴らしい方がたくさんいます。
私の知っているI先生もそんな素晴らしい先生の1人です。

 中学校で教員をしていた頃、いつも問題を起こす男子生徒と真正面から関わり続けた話を聞きました。
『私は女だから腕力ではかなわなかったけれど、妥協はしませんでした。ここで妥協したらこの子はダメになると思って・・・真正面からぶつかりました。』身の危険を感じたことまであったそうです。
『でも、ほんとうに真剣に関わると必ず相手にもこちらの思いが伝わるものなのです』
 I先生の宝物は、卒業式にある生徒からもらった学生服の第2ボタン(男子生徒はよく卒業式で1番大切な人に第2ボタンを贈ったものです)、今でも大切に机の引き出しに入っているそうです。I先生と生徒達との深いむすびつきが目に見えるようでした。
『子供は未来からの留学生』と言った先生がいました。I先生と出会った未来からの留学生達は今、きっと立派な社会人になっていると思います。

(クラブ週報 2002年3月20日号)

 

36.子供達からの卒業証書
 K先生は37年間の教員生活を終えて今春、定年を迎えました。
「教師という職業は、たくさんの人と出会って別れて、また出会って別れて、その繰り返しの中で、一期一会に胸をときめかせ、充足感に魅せられて続けてこられた仕事です」という素敵なお手紙をいただきました。
 子供達から見たK先生は「厳しいけど、いいことをすると、とっても褒めてくれる」
「授業は脱線するけど、いい話を聴かせてくれる」
「自分達のことをしっかりと見ていてくれる」・・・。
子供達が中心になって『K先生を送る会』が開かれたそうです。2学期の合唱コンクールを聴けなかったK先生のために130名の生徒が素晴らしい歌声をプレゼントしました。
そして『あなたは、37年間教師として・・・』という書き出しで始まる心のこもった手作りの卒業証書まで作り、成績表には、男らしさ・・・5、忍耐力・・・5、包容力・・・5。
「子供の頃にはこんないい成績表もらったことなかったなあ」と嬉しそうでした。
4月からは、嘱託として、ある中学校の生徒相談の仕事をされています。「今を盛りに咲き競っている桜のなかで1本だけ遅れて咲けない木があります。例えてみれば、今度の仕事は拒んでいるこの1本とどんな会話が出来るか、という仕事です」とK先生。
先日、K先生は「・・・学校へ行けず担任の先生とも顔を合わせたことがなかったという生徒に会えたんですよ」と話してくれました。家に何度も通い、一方通行のメッセージを送り続けたK先生の心が通じたのでしょう。「帰り際に部屋の窓からそっと手を振ってくれたように見えました」と。
K先生の新しい仕事は教員生活37年の集大成として神が与えてくれた天職のように思えました。

(クラブ週報 2002年3月27日号)

 

37.感謝を教える入社試験
 いつも「心に響くいい話」をファックスして下さる柏市の堀野耕資さんに教えて戴いた話です。
・・・ある会社の社長は、毎年入社試験の最後に学生に、必ず2つの質問をするそうです。「あなたはお母さんの肩叩きをしたことがありますか?」「はい」と答えた学生に「それはいいですね。では次に、お母さんの足を洗ったことはありますか?」ほとんどの学生が経験していないことです。すると社長は、お母さんの足を洗って3日後に報告に来てください。そこで入社試験はおしまいです、と言うのです。
 学生達は皆、そんなことで入社できるのなら、とほくそ笑みながら会社を後にします。ある学生は不審がる母親をようやく縁側まで連れて行き、タライに水を汲み入れ、鼻歌まじりに準備を始めました。ところが、母親の片足を持ち上げた瞬間、その足の裏があまりにも荒れ放題に荒れているのを手のひらに感じ、思わず絶句してしまいました。
 その母親は若い時に夫を事故で亡くし、女手一つで死に物狂いで働いて子供達を育ててきたのでした。そのことを悟った学生は、急に胸がいっぱいになり、「母さん、長生きしてくれよな」と、一言いうのが精一杯でした。それまで、息子の柄にもない孝行を冷やかしていた母親は「ありがとう」と言ったまま黙り込んでしまいました。
ふと、彼の手に落ちてくるものがありました。母親の涙でした。学生は母親の顔を正視できなくなり、「お母さんありがとう」といってそのまま自分の部屋に引きこもってしまいました。
この会社の社長はいつも「人は決して一人で生きてゆけるものではない、たくさんの人に支えられて生きているのだ」と諭されるのだそうです。

(クラブ週報 2002年4月3日号)

 

38.恵みの呼吸
 東村富弘美術館の開館10周年を記念して渡辺和子先生の講演会が開かれました。渡辺先生はノートルダム清心学園の理事長さん。『生きること、死ぬことの大切さ』というテーマで心に響くお話をされました。
『・・・よく生きる、ということは与えられた命を大切に使うこと。そのためには、小さな仕事やいやな仕事も「つまらない、つまらない・・・」と思いながらするのではなく心を込めて「お幸せに、お幸せに・・・」と祈りながらすることが大切。もし、それで相手が幸せと感じなくても「お幸せに・・・」と祈りながら仕事をするあなたが一番幸せになるのです』とおっしやいました。
 渡辺和子先生が36歳でノートルダム清心女子大学の学長になり、大変なプレッシャーと苦しみを感じて悩んでいた頃、ある牧師さんからこんな詩をいただいたそうです。
『天の父様、どんな不幸を吸っても、吐く息は感謝でありますように。すべては恵みの呼吸ですから』・・・。30数年経った今も、この色紙は大学の正面玄関に飾られているそうです。
苦しみや不幸のない人生がよい人生ではなく、苦しみや不幸に意味を見出だし、それを感謝に変えられる一生こそ尊い人生なのだ、ということを渡辺和子先生はいろいろなエピソードを交えてやさしい口調で語りかけてくれました。富弘美術館の入り口のカウンターには東村の季節の草花がいつもさりげなく飾られ、スタッフの方々が優しい笑顔で迎えてくれます。美術館全体が来館者に「お幸せに、お幸せに・・・」と祈ってくれているような素敵な雰囲気。秋の観光シーズンも終わり、また、ゆっくりと富弘さんの詩画を鑑賞できる季節になりました。

(クラブ週報 2002年4月10日号)

 

39.レスリング王国・大間々
 福岡中央小学校の金子淳二教頭先生は大間々ミニレスリングクラブを結成して10年、現在では週に3回、40名以上の子供達を指導しています。
結成2年目に出場した大会では、なんと全員が1回戦で敗退という屈辱を味わったそうです。しかし、その屈辱をバネにした金子先生のレスリングヘの熱い思いが子供達にも伝わり、昨年は、関東各地から300名もの選手を集めてミニレス大間々大会を開催するまでになりました。そして、ついに22階級のうち16階級で優勝するほどまでに成長しました。
金子先生のモットーは『仕事は人の3倍やる』ということ。『自分が一生懸命やれば子供達は必ず応えてくれます』細い目をいっそう細めながら、とっても嬉しそうでした。
飾り気がなく「ハートで話をする」という表現がピッタリの優しくたくましい話し方にすっかり引き込まれました。彼等の中から明日のオリンピック選手が出てきてくれることを願いました。

(クラブ週報 2002年4月17日号)

 

40.親子の季節
「こころの風景」(荒木忠夫著)を読んだ方から、たくさんの感動のお便りや電話を頂きありがとうございました。今月はこの本の中の「親子の季節」というお話を紹介いたします。
 『受験シーズンたけなわである。受験といえば、私にも忘れられない思い出がある。高校卒業後、父は私を就職させようと考えていた。私はどうしても大学へ行きたかった。父はしぶしぶ承知したが、九州大学以外は絶対にだめだと言い張った。おそらく、九大なら必ず落ちると考えたのである。そして、休日になると、私を無理やり畑に連れて行った。父は私の不合格を望んでいると考えて、父を恨んだのである。それが逆に私を奮起させた。
「今にみとれ、このくそおやじめ」私はいつも心の中で、そう叫んでいた。入試が終わり家に帰っても父はゆっくり休めとは一言も言わず、私を畑に連れて行った。私はますます父を恨んだのである。
いよいよ発表の日が来た。発表は夜11時から、ラジオで行われた。私は昼間から、おんぼろラジオのチャンネルを合わせ、布団に入って耳をすましていた。発表開始とほとんど同時に、私の名前が出たのである。私は思わず「やった」と叫んでいた。すると、その時、隣の部屋から「万歳」という父の声が聞こえたのである。私は驚いて父のところへ行った。すると、父の目には涙が光っていた。そして、私の手をしっかりと握って、声をあげて泣き出したのであった。
私はその時、初めて父の本当の心を見たような気がした。そして、心の中で父に謝ったのである。受験シーズン、それはまさに「親子の季節」なのである。』

(クラブ週報 2002年4月24日号)

 

41.熱意と感動があれば・・・
 『地域文化の振興とまちづくり』という講演会がありました。講師は、ながめ黒子の会・黒子頭(会長一の椎名祐司さん。
椎名さんは「ながめ黒子の会」と染め抜かれたお馴染みの黄色いはっぴ姿で壇上に上がり、まちづくりへの熱い思いを話してくれました。『21世紀を担う子供たちのために素晴らしい大間々を残してやりたい』そんな思いが周囲の人達の共感を呼び、黒子の会の素晴らしいネットワークができてきたそうです。
 ある時、椎名さんはTBSラジオの永六輔さんに手紙で、ながめ余興場のことや黒子の会の活動を知らせ、予算はないが、是非是非大間々に来てほしいとお願いしました。暫くして届いた永六輔さんからのハガキにはひとこと『3月23日なんとかなりそうです』椎名さんは飛び上がるほどうれしかったそうです。
予想通り永六輔さんのトークショーは大盛況でした。『成功の法則』(江口克彦著)という本に『熱意を持てば成功する、感動を与えられれば成功する』と書いてありました。21世紀、大間々は更に素晴らしい町になります。

(クラブ週報 2002年5月1日号)

 

42.子犬と少年
 『こころのチキンスープ』という本にいい話が載っていました。ご紹介します。
「子犬セール中」のポスターを見て男の子がペット・ショップに入ってきました。「おじさん、僕、2ドルと37セントしかないんだけど、見せてくれる?」
店のオーナーはほほ笑みながらピーツと口笛を吹くと、毛がフカフカの子犬が5匹、転がるように出てきました。ところが、1匹だけ、足を引きずりながら、一生懸命ついてくる子犬がいるではありませんか。「おじさん、あの子犬はどうしたの?」と男の子は聞きました。
 「生まれつき足が悪くて、獣医さんから、多分一生治らないって言われたんだよ」と店のオーナーは答えました。ところがそれを聞いた男の子の顔が輝き始めたのです。「僕、この子犬がいい。この子犬を頂戴!」
「坊や、よしだ方がいい。そりやあ、もしどうしてもこの犬が欲しいって言うなら、ただであげるよ。どうせ売れるわけないから」と店のオーナーが言うと、男の子は怒ったようににらみつけました。
「ただでなんかいらないよ。おじさん、この犬のどこが他の犬と違うっていうの?他の犬と同じ値段で買うよ。今2ドル37セント払って、残りは毎月50セントずつ払うから」
オーナーは「だってこの子犬は普通の犬みたいに走ったりジャンプしたりできないから、坊やと一緒に遊べないんだよ」これを聞くと、男の子は黙ってズボンの裾をまくりあげました。ねじれたように曲がった左足には、大きな金属製のギブスがはめられていました。
男の子は、オーナーを見上げて優しい声で言いました。「きっとこの子犬は、自分の気持ちがわかってくれる友達がほしいと思うんだ」

(クラブ週報 2002年5月8日号)

 

43.ガンバレ、A子!
 岩手県の友人から毎月、「おかげさま」という手づくり新聞と二ユーモラル」という冊子が送られてきます。その中でのいい話です。
ある荒れた中学校で水泳大会が開かれました。選手を選ぶのに番長ともいえる生徒が「A子がいい」と言いました。A子ちゃんは体に障害を持っていました。番長が怖かったので反対の声は上がりませんでした。
 水泳大会当日、A子ちゃんは水しぶきをあげて飛び込みました。しかし、なかなか前に進みません。その姿が滑稽に見えたのか、プールサイドの生徒達は声を上げてはやし立てます。その時一人のおじさんが、何も言わず、着のみ着のままでプールに飛び込みました。
バチャバチャやっているA子ちゃんと一緒に泳ぎながらおじさんは「腹立つねえ、でも自分で泳げよ」A子ちゃんが沈んでしまわないようにエスコートしながらも、手を出すことはしませんでした。必死で泳ぐA子ちゃん、服のまま寄り添って泳ぐおじさん。その光景に生徒達はいつしかシーンとなり、ついであちこちから声が上がりはじめました。
「がんばれ、A子」「がんばれ、A子」その声はやがて大合唱になりました。全校生徒のエールのなかA子ちやんは25メートルを泳ぎ切り、おじさんと抱き合って泣きました。おじさんは校長先生でした。それ以来、教室のガラスが割られなくなったそうです。

(クラブ週報 2002年5月15日号)

 

44.尽くし合い
 縁あって、熊本県の中学校の真田晴美先生が大間々にお越しになりました。一緒に食事をしながら、真田先生と親しくしていた同僚の崎坂祐司先生の話を聞いてとても感動しました。
 崎坂先生は熊本県腹栄中学校の数学の先生でした。生徒に人気のある、とても明るい先生でしたが、平成元年に「アミロイドーシス」という難病であることを宣告されました。この病気は体の機能が次々に衰え、発症から10年から15年で死を迎えるという恐ろしい病気です。
 教師を辞めることを考えた崎坂先生に「あんたしかできん教育があるとと違うと」と同僚の先生から励まされ、体力の続く限り教壇に立ち続ける決意をしだそうです。崎坂先生は授業中いつも「問題を解き終わったら、人に教えろよ。自分だけできればいい、そんな人間にはなるなよ」と教えていたそうです。
 病気が進行し自分で運転が出来なくなってからは奥様の運転で学校に通いました。学校に着くと数人の3年生の生徒が崎坂先生をおぶって職員室のある2階まで行き、2階に着くと女子生徒が上履きを用意して待っていてくれたそうです。入試で3年生が来られなかった日は2年の男子にその役目を頼み、後輩たちも1日も休まず続けてくれたそうです。
平成2年の卒業式の日、問題児と言われていた生徒が「はよう、バイクん免許ば取って、バイクは買って、サイドカーに崎坂先生は乗せて俺が送り迎えぱしてやる。免許は取るまで、おらすやろか」とぼろぼろ涙を流したそうです。
 崎坂先生でなけれぱできない「尽し合い」の教育を命をかけて実践されたことに感動しました。今は亡き崎坂先生のご冥福をお祈り致します。

(クラブ週報 2002年5月22日号)

 

45.青いあざのおかげで
 上甲(じょうこう)晃さんという方の講演の中で印象深いお話がありました。
『私は、ある育英財団の選考委員もしています。
奨学金を出してあげる選考試験でのこと、面接に来た人の中に、顔の半分にあざがある女学生がいました。ああ可哀そうだなあ、と思ったんですね。他の選考委員の人達も誰もその事に触れず面接が全部終わったんですが、彼女が最後にこう言うんです。
「私のあざをみて下さい。このあざは病院に行きましたら、治すことができると聞きました。だけど本当に取っていいかどうか悩んでいます」そんなもの早く取ったらいいのにと、私は内心思ったんです。ところが彼女は「確かに、このあざのために本当にいじめられました。しかし、いじめられている私をみて、本当に私を支えてくれた友達もいました。青いあざのおかげで本当の友達にめぐりあうことができました」と言うんですね。「学年で成績が一番になれたのも、青いあざのおかげ」と言うんです。
 私はその言葉を聞いて、17歳の高校生だけど、えらいなあと思いました。外見的にみたら、青いあざなんか何のプラスにもならない、本当に邪魔にこそなれ、何の得にもならないと思ったけれども彼女はその青いあざのおかげで、ここまで自分が頑張ることができ、本当の友人ができたと言うのです。
「全てこの青いあざのおかげ、だから本当に簡単に取ってしまっていいものか、悩んでいます」という言葉に私はたいへん勇気を与えられた気がしました。
 逃げることができないことについては「それもまたよし」というふうに考える時、はじめてハンディキャップもプラスに生かすことができます。そして、その「生かす」ということが人間の「生きる」という意味ではないかと思います』

(クラブ週報 2002年5月29日号)

 

46.あおいこえ
 先日、まごころ塾という勉強会に参加しました。塾長は元小学校教諭の内堀一夫先生。
 内堀先生は20数年間、毎日学級通信を発行し続け「出会いと気づき」の大切さを子供たちに教え続けた先生です。
ある日の学級通信『あおいこえ』に4年3組の田端由佳里さんのこんな詩がありました。
『先生、あのね今日20分休みに大須賀君は廊下のところにあるほうせんかに水をあげていました。私は「大須賀君えらいね!」といいました。(中略)これからもがんぱってね、大須賀君!』
大須賀君の行為とそれを詩にした田端さんに内堀先生はまぶしいくらいの優しさを感じ、クラス全員にこの感想を書くことを宿題にしました。感想文は期待以上の内容でした。内堀先生は全員にAまるをつけて返し、「どうかしっかりと読んであげて下さい」と親達にもお願いしました。
 翌日の「あおいこえ」には大須賀君の感想文が載っていました。
『ぼくは土のかわいたほうせんかが目に入った。あ・・・まだかれていない、命がある。すぐに水をやった。その時、つぼみが一つだけあるのに気づいた。よかったよかった、と心で思った。田端さん、ぼくはこんな気持ちで水をやりました』
人や物への思いやりや命を大切にする心はこんな小さな事の積み重ねから生まれるのだと思いました。その年の毎日新聞の「上州っ子」いう欄に内堀学級の中島由弥子さんのこんな話も紹介されました。
『今日の帰りにきれいな花が捨てられていました。私は「かわいそうに」と思って一つずつ拾って、私の家の花だんにおいて水をかけてやりました。私、こんなことできる人間じゃなかった。でも、内堀先生にならって変わったみたい! 先生ありがとう。』

(クラブ週報 2002年6月5日号)

 

47.びょういんの木
 岡村理君は、大気汚染が原因で気管支喘息になってしまいました。
入退院の繰り返しで小学校にはほとんど通学出来なかったそうです。そんな岡村君が、病室で5ヶ月かけて「びょういんの木」という絵本を作り、汐文杜から出版されました。
絵本の、あるページには家族に囲まれてベッドに寝ているやさしそうなおぱあちやんの姿がクレヨンでていねいに描かれています。
 『びょういんの木。大きな木。あなたは何をささやくの? ちょうど今、あの子らのおばあちゃんが死んだのさ。とってもすてきなおばあちゃん。ガンで、骨がとけてしまっても「老人会の仲間にあげるの」「孫たちが、外で元気に遊べるように」ってチクチクいつもベストをあんでいたんだ。
「おばあちゃんの体はなくなっても、おばあちやんは君達の中に生きているよ」おいらはそう囁(ささや)くのさ・・・』
高崎市の小学校の内堀一夫先生は授業でこの絵本を教材にしました。そして子供達から岡村君に「絵をじょうずに描き、素晴らしい文が書ける岡村君はすごい」など36通の手紙を送りました。
そして岡村君からの返事には「白血病で亡くなった同級生は苦しくて吐きながらでも『早くよくなってお母さんを楽にさせたい』と死ぬ直前まで頑張ったんだ。自殺を考えている人がいたら、生きたくても生きられなかった子がいることを教えてあげたい・・・」
岡村君は「弱虫だった僕だけど、生きる勇気や暖かい思いやりを教えてもらった。今度はそれをみんなに伝えたい」と...。そんな岡村君の願いが叶い『びょういんの木』が映画になったそうです。大間々でも上映し、皆で観てみたいですね。

(クラブ週報 2002年6月11日号)

 

48.いのちの根
 今月は、相田みつをさんの師であった武井哲応さんのお話を紹介します。
「ぼくは秋田の田舎の生まれでね。家は百姓だった。ぼくは親父の顔を覚えていない。おふくろが畑や田圃の仕事に行く時は必ずついて行った。今から思うと、おふくろも親父に早く先立たれて大変だったろうなと思う。そのおふくろがね、畑に行く途中で、道端に咲いている野の花をほんの少したげ鎌で切ってね、背中のかごに入れるんだな。
 「今日は仏様の命日だから・・・」といってね。すると子供のぼくは、おふくろが採った花よりもっと大きい花を発見するんだな。そしてその花を抜こうとしたんだ。それを見たおふくろがね、「揺すぶっておくだけだよ、抜かなくてもいいんだよ」と言ったんだ。「のんのさんにあげるんだから採って行くんだ」と僕がだだをこねるとおふくろが「のんのさんにあげたよ、といって花を揺すぶっておけば、あげたことになるんだからね、抜かなくてもいいんだよ」と。
 小さな子供のぼくにね、花の命を大切に、なんて言ったって分かりはしないな。ただ自然にね、「のんのさんにあげたよ、といって花を揺すぶっておけぱいいんだよ」と具体的なやり方、具体的な事実だけを教えたんだな。
 モノの命を大切に、なんてしゃっちょこぱった理屈を言ったわけじゃない。もっといっぱい花を採ろうとした子供のぼくにね、その時さりげなく言ったおふくろのことぱ、しぐさがね、年を取って考えると、いつのまにかぼくの命の根になっているんだな。すべてのものの〈いのち〉を大切にするというね、人生観と言うか、物を考える時の根底になっているんだな。
山の畑へ仕事に行く途中でね、さりげなく言ったそんな言葉がぼくの一生の命の根になった。理屈じゃないんだなあ」   -『円融便り』より-

(クラブ週報 2002年6月19日号)

 

49.ワールドカップ体験記
 水戸市で、お酒落な雑貨と甘味・お食事処のお店を経営している親友から感動の手紙を頂きました。
 『...長女の華子(12歳)と私はリヨンのジュランド競技場にいました。ワールドカップ最終戦もジャマイカに負け、虚脱感が応援席を包んでいる中、最前列の2~3人の日本人サポーターが敗戦の悔しさで目を真っ赤に腫らしながらブルーのビニール袋を手に「皆さん、ごみを袋に入れましょう」と呼び掛けていました。
 私達も袋をもらい周囲の人にも声を掛けて紙吹雪や紙屑を拾い始めました。多くの日本人の観客も足を止めてごみを拾い始めました。満杯になったビニール袋をもって“掃除呼び掛け人”の彼に握手を求め「日本は試合には負けたけどサポーターとしては世界一だよ、感動をありがどう」と伝えると、彼の目にも熱いものがこみあげていました。よごれたスタンドを掃除できたことに改めて日本人としての誇りを感じました。
その光景を見ていたフランス人ボランティアの年配の方々は“美しい姿を日本人に見た”と目頭を熱くしていました。華子と目を合わせると彼女の目もつき上げる心の高まりで潤んでいました。帰り際にIDカードを首から下げたフランス人に呼び止められました。「フランス語、ワカリマスカ?」「少tなら分かります」「私は今、大変感動しています。このような素晴らしい日本人の方々をリヨンのスタジアムにお招きできたことを至福の喜びに感じております、私たちフランス人の喜びを日本の方々にも知らせてあげてください。メルシ・ボク」と私に固い握手を求めてきました。フランスでは大きな心の財産を得られ、生きる喜びを感じて帰って参りました。』

(クラブ週報 2002年6月26日号)

 

50.稚児地蔵(最終回)
小さな御縁がきっかけで、京都の仏師・堀部幸男さん御夫妻が大間々にお越しになりました。
 堀部さんは、10歳でお父さんを亡くし、中学卒業と同時に、自動車販売会社に勤めて一家を支えました。長年の夢だった彫刻の道に進んだのは26歳になってからでした。日本を代表する仏師・松久朋琳(まつひさほうりん)先生のもとで修行を始め、夜は現代彫刻を学び、帰宅後はアルバイトで仏像を彫り、睡眠時間が4~5時間という生活を続けて8年後に独立しました。
 わき目もふらず仕事にのめり込んでいた堀部さんの心の眼を開いてくれたのは息子さんの大介君の存在だったそうです。大介君は3歳の時、自閉症と診断されました。成長と共に周囲に迷惑をかけてしまったり、誤解を受けたりで御夫婦は謝りどおしの毎日でした。昼間の介護に疲れ果て、夜になると大介君の寝顔を見ながら「どうか朝が来ませんように」と祈ったことが何度もあったそうです。
 一家の苦しみがピークに達した時、堀部さんは「夫として、父として、家族の苦しみを救ってあげられない無力感を感じ、大いなる存在に祈ることしかできなかった。自分が祈る側に立った時、初めて仏様に祈る人のことが思えたのかも知れません...」と。堀部さんが深くそう感じた時に無心で彫った観世音菩薩像を見て奥様は思わず手を合わせだそうです。そして、見に来て下さった方々も「仏様を見て涙を流したのは初めてです」と手を合わせました。
 今、堀部さんは稚児地蔵という掌に乗るくらいの仏様も彫っています。ハスの花びらの上で無邪気にほほ笑む小さな仏様を見ると、私達の大きな不安や苦しみが救われるような気がします。

(クラブ週報 2002年7月3日号)

 

Club Banner
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 クラブバナーのデザインは、創立時のテリトリーのシンボル的存在だった栗林公園の「箱松」とロータリーのエンブレムを組み合わせたものです。

 箱松とは、その名の通り箱のかたちを装った松。樹芸の粋を極めた箱松は、ほかには見られない特別名勝 栗林公園ならではの景観をつくっています。

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