2009-10年度 第26回例会 平成22年1月20日(水)
卓話「鎌倉芳太郎の足跡を訪ねて」 堀 祥二会員
今回で4回目となる高松南ロータリークラブの「鎌倉芳太郎顕彰活動」は2009年12月13日(日)から14日(月)にかけて那覇南ロータリークラブを訪問、琉球新報社の元専務野里洋先生を講師に鎌倉芳太郎の事績について認識を新たにしました。
訪問団は豊田章二パストガバナー、智子夫人、田中弘之会長エレクト、多田哲雄、森恒弘、篠田日出海、Masoud Sobhani、佃昌道、堀 洋二の9名。
卓話の中で特に2009年12月14日(月)に野里 洋先生とともに沖縄県立芸術大学学長室に宮城篤正学長を訪ねて対談された様子を次のように報告しました。
沖縄県立芸術大学宮城篤正学長と対談
鎌倉芳太郎は常に沖縄が第二の故郷であると言っていました。当時、私は若かったので運転手的な立場でご一緒していろいろなことを教えていただきました。
自称ですが、先生とは師匠と弟子の関係だと思っており、名刺にも東京中野のご自宅にお邪魔した際に書いていただいた先生直筆の「宮城篤正」の文字を使わせていただいています。
ご自宅では「鎌倉ノート」を実際に見せてもらい、お借りして旅館に持ち帰りコピーさせてもらって次の日に返したこともあります。
そして「君は若いのだから、このノートを使って沖縄文化の研究を発展させなさい」と言われました。ご子息の秀雄さんのところへも何回か資料をいただきに行きました。
先生の方が体格は一回り大きかったが、秀雄さんとはとてもよく似ていました。先生は沖縄そばが大好きで、私が半分食べるぐらいの間にどんぶり一杯をあっという間に平らげていました。
先生は知念家など紅型三宗家(知念家・城間家・沢岻家)に足繁く通って調査、記録し、それらの資料を持ち帰り、大事に大事に保管していました。
戦時中は自宅の庭に防空壕を掘ってノートやガラス乾板などを保存していました。
戦後サントリー記念館で保管していた資料を、その館長が沖縄に返還する提言をしたときも「きちんと保管できますか。できるならいいですよ」と、保存、保管に対してはとても気を使っていました。
本学での保管は空調も整っていて問題はありませんが、国の重要文化財の指定を受けてからは、より厳重な態勢を整えています。本学では現在も「鎌倉ノート」を翻刻しており、紅型についても800ページの本を1冊出しており、あと2冊くらい出版する予定です。
「鎌倉ノート」にはいろんな書き込みがあるので、翻刻にはすごく時間がかかります。
調査は宮古、八重山、伊是名、...と広範囲に、また多分野に亘っており、先生には眠る時間が本当にあったのかと思うくらいの膨大な量です。もっともっと顕彰しなければいけないと地元の方々も思っています。
先生は当時の最先端の技術を使い、カメラも最高級のものを持ち込み、細かいところにまで目を当てていました。
尚家に関しても細部に亘るまで、学問的視点に基づいて調査していました。菩提寺である円覚寺も、薄暗いところをシャッター開放のまま撮影し、肉眼では見られないようなものまで撮っていました。写真の水洗にも気を使い、龍樋(りゅうひ)の水を使って十分に行っていました。
当時市役所がその近くにあり、市長も市役所の一室を提供していました。カメラについてアメリカの技術者から学んでいたように、周りにいろいろな協力者がいました。
東京美術学校を卒業して沖縄に来て、2年で調べた資料を当時の正木校長に見せたところ、「これは素晴らしい」と感心され、東京帝国大学の伊藤忠太先生に紹介されました。
このことが、その後の首里城取り壊しを、2人が国を動かすことによって止めさせたというドラマチックな行動に繋がったのです。
当時、文部省の技官が首里城の図面などの記録を残してはいましたが、やはり「鎌倉ノート」のほうが重要でありました。
まさかその後に沖縄戦、地上戦でこのようなことになるとは思っていませんでした。
1950年代まだ琉球政府の時代に、名渡山愛順さんがロックフェラー財団による米国研修の帰りに東京の鎌倉家を訪れたときに、先生は5~600枚の紅型を彼に託して沖縄に返しました。
先生と私との出会いは沖縄本土復帰(1972年)前の1970年か1971年だったと思います。
そして復帰後も何回かインタビューをするためにご自宅を訪ねました。
その時に名刺の文字「宮城篤正」を書いていただきました。
当時先生は「沖縄文化の遺宝」を執筆中で、その時にも資料の一部をお借りしてコピーさせてもらいましたが、「大事なものだから大切に扱ってください」といわれました。
この本の執筆には10年かかったようです。
鎌倉芳太郎のご縁でこのようなこのような文化交流ができて大変ありがたいと思っています。
先生は、絵師の資料を石垣で残した関係で石垣名誉市民になっていますが、本当は沖縄名誉県民にすべきだと思います。
本学でも鎌倉芳太郎記念館のような形を考えていますし、先生の資料を目玉にし、沖縄文化研究の拠点となる大学にしたいと思っています。
(2009.12.14 沖縄県立芸術大学学長室にて)