首里城の再興や型絵染めの人間国宝鎌倉芳太郎の顕彰碑の除幕式が2010年10月24日、生誕地の香川県木田郡三木町の山大寺池堤防で行われ、豊田章二パストガバナーや田中弘之会長、上村光男幹事ら高松南ロータリークラブ会員も多数参列しました。生家を見渡せる堤防上に鎌倉芳太郎顕彰会が約2年掛けて準備して建立にこぎつけたもので、佃昌道会長が「香川の生んだ偉大な先駆者を顕彰し、その業績を長く後世に伝えたい」と挨拶、梅原利之香川県観光協会会長や津森明高松市歴史民俗協会会長ら参列者およそ30名が見守る中、紅白の綱を引き除幕しました。
顕彰碑は高さ1㍍55㌢、幅1㍍30㌢、奥行き30㌢の庵治石で「鎌倉芳太郎顕彰碑」と大書し、下側に津森明会員による撰文が次のように刻まれています。
「鎌倉芳太郎は明治三十一年に香川県木田郡三木町氷上に生まれ香川師範学校、東京美術学校図画師範科に学んだ。大正十年卒業と同時に沖縄県女子師範学校、沖縄県立第一高等女学校教諭併任となった。芳太郎にとり琉球列島の風土、景観全てが珍しく当時出始めた写真機を使い風物を撮影、沖縄伝統の紅型にも興味を持ち、研究を重ねて新境地を開く。また首里城を撤去し沖縄神社を作る内務省方針を知った芳太郎が建築家の東京帝國大学教授伊東忠太に連絡、今日の城郭が残り史跡天然記念物に指定された。戦火で破壊された城跡などの再建には芳太郎の記録がなければありえなかった。沖縄諸島の写真だけでも千数百枚もあり見聞きした風物などを細かく記録した帳面は八十冊に及び各地で遺宝を見つけた。のちに東京美術学校助教授となり多くの資料、物品を東京に保管、これらの貴重な資料が戦火を免れた。沖縄研究は多岐にわたり昭和四十八年に重要無形文化財保持者に認定され沖縄県立芸術大学に研究資料が収蔵されている。昭和五十八年に逝去。今回顕彰会設立を記念に石碑を建立する
平成二十二年十月建立
鎌倉芳太郎顕彰会
題字 植村青嵓」
芳太郎は大正10年東京美術学校(東京芸大)卒業と同時に沖縄県女子師範、県立第一高女に教諭として 赴任、沖縄文化に興味を持ち研究、教諭としての僅か2年間に、見聞きした記録(鎌倉ノート)や写真など膨大な資料が残されました。これらが第二次世界大戦の戦火で破壊された城跡の再建と型絵染め(紅型) の復興に尽くすこととなりました。特に紅型については以前から“紅型を継承するのは沖縄の人であり、それ以外の誰でもない。結局私は本土からの旅人であり、そこに日本人としての新しい心象の世界を表現しなければならない”として自らは研究者から紅型の製作者に転身、沖縄紅型とは違った分野で活躍し、人間国宝まで上りつめました。
記念碑の建立については、2008-9年度国際ロータリー第2670地区の豊田章二ガバナーが、鎌倉芳太郎顕彰会創立ともに参加し、様々な形での支援を続けてきました。そして2009年高松市で開催した地区大会前日に那覇南ロータリークラブと高松南ロータリークラブとの間で友好クラブ協定が結ばれ以来毎年交流が続いています。
この日顕彰碑除幕記念として、氷上小学校の図工教室で三木町内の親子を対象に型絵染めの体験学習講座が高松大学准教授の小西博子さんの指導で開かれて、型染め作品の作成に挑戦し、予定時間をオーバーして熱心に制作を続ける光景も見られました。
また佃会長が、「三木町の偉人、鎌倉芳太郎を顕彰」と題して記念講演しました。